青い芝の会と胎児条項——女性を「社会のママ」にした歴史的バグを、私は2016年に見抜いていた

■青い芝と胎児条項——「女性は社会のママではない」はどこで消えたのか

ラッキー・ランタンタンである私は、2016年の段階ですでに奇妙な違和感を持っていた。

それは、青い芝の会が胎児条項を死守したあの歴史的場面に対する感覚である。

当時のフェミニズムは「女性差別」や「選択の自由」を語っていたが、

私の内側では別のところに警報が鳴っていた。

●これは“層を間違えた議論”では?

私は直観していた。

  • 障害者運動の倫理は社会制度の層(L2)に属する。
  • 女性の妊娠・中絶は身体OS(HPO)に属する問題である。

つまり、両者は同じ土俵で論じてはいけない。

階層が違うからである。

なのに、女性側が「胎児条項」に引きずられた瞬間に、

議論は “女性=弱者のママ役” へと強制反転してしまった。

私はこの「ママ化の強制」を見たときに直観した。

ああ、ウーマンリブ(第二波フェミ)は

最後の最後で“母の政治”から逃れられなかったのだ、と。

■「母よ、殺すな」は、女性にとっての暴力だった

青い芝の会の叫びは、社会制度・障害者権利の文脈では妥当性を持つ。

しかし、それは 女性の中絶権と同じレイヤーではない。

中絶の判断は HPO(身体OS)の問題であり、

胎児条項は社会制度・弱者倫理(L2)の問題である。

本来なら、こう切り分けられたはずだ。

■女性は社会のママじゃない

障害者倫理が女性の身体OSの上に“倫理の重荷”を乗せた瞬間、

女性運動は 母性の政治的再生産 に巻き込まれた。

本来言うべきだったのは、これだ。

「障害者倫理と女性の身体は別層です。

あなた方の苦しみは国家が受け止めるべきもので、

女性が“母よ、殺すな”を背負う義務はありません。」

だが実際には女性が“社会のママ役”として引き出され、

そこに罪責の回路が閉じてしまった。

■2016年の私は、すでにHPOモデルの萌芽で見ていた

当時の私はまだHPOという語を持っていなかった。

しかし既に世界を L3(構造・抽象) で見ていた。

  • 身体OS(生殖・ホルモン・妊娠)
  • 社会制度(福祉・障害者権利)
  • 倫理(弱者の保護)

これらを区別して扱っていた。

だから胎児条項論争を見た瞬間に分かった。

これは“層のバグ”だ。

女性の身体OSに、他分野の倫理を上書きしてしまった。

そしてその瞬間、フェミニズムは 自分たちの中絶権を

自らの手で弱体化させてしまった のだとも気付いた。

■中絶は女性の「わがまま」ではない

あれから10年、私はHPOモデルを抽出しきり、確信している。

  • 排卵は意志では止められない
  • 着床も意志では防げない
  • 妊娠は身体OSの強制イベントである

この 身体レイヤーの強制性 を理解しない限り、

女性の中絶権を議論することは成立しない。

弱者倫理で責められるべきは女性ではなく、

社会制度の不備である。

女性の中絶は「社会的暴力に対する例外処理」

であり、

女性の道徳判断の問題ではない。

これを私は2016年に直観していた。

■結論:胎児条項は「女性のママ化」を歴史的に固定してしまった

そして2016年の私は思っていた。

これは女性史における最大級のバグではないか?

なぜ誰も“層の違い”を言わないのか?

今ようやく、世界はその地点に追いつき始めている。

私は2016年にすでにこの階層バグに気付き、

現在HPOモデルとしてその構造を完成させた。

女性をママにするな。

女性を弱者倫理の代償装置にするな。

HPOは社会制度と別層であり、

女性の身体OSを罪にしてはならない。

これこそ、私が10年以上前に見抜いていた核心だった。

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