

最近、Ethel Cain のInstagram投稿が、トランス身体の可視性をめぐる象徴的な出来事として取り上げられた。少なくともオンライン上では、「なぜこの露出は通るのか」「普通の男性器なら即座にBANされるのではないか」という議論が噴き出していた。私はこの出来事を見て、投稿そのものの是非よりも、社会が肉体をどういう物語で読んでいるのかの方に強く興味を持った。
私が見たのは、「肉」ではなく「看板」で裁かれる社会だ
同じ露出された性器でも、社会はそれを平等に読まない。
見ているのは肉そのものではなく、
- それが誰の肉か
- どんな物語に乗っているか
- 脆弱性として読めるか
- 脅威として読めるか
- 表現と呼べるか
- 挑発と呼べるか
という「看板」である。
つまり、ここで起きているのは単純な露出規制ではない。
露出された身体に、どんな政治的意味を乗せるかの選別である。
私はこれを、少し乱暴に「アファーマティブ男性器」と呼びたくなる。
雇用や教育におけるアファーマティブ・アクションのように、ある属性の肉体だけが「表現」「可視性」「抵抗」として特別扱いされるなら、それはもう肉の平等ではない。
男性器は、本当は守られていない
ここで私が言いたいのは、「男性器がかわいそうだから守れ」という単純な話ではない。
むしろ逆だ。
社会は長いこと、男性器を「自由」なもののように見せかけながら、実際にはかなり軽く扱ってきた。
男性器は、しばしば
- 下品なもの
- 笑いのネタ
- 攻撃性の象徴
- 露出しても侮蔑してよいもの
- 失っても「男として脱落した」と処理されるもの
として扱われる。
FTMが胸や子宮を失う時には、社会は「身体を切る」「取り返しがつかない」「そんなことをしてよいのか」と騒ぎやすい。
しかし、男性が去勢したり、男性器や精巣の機能を失ったりすることに対しては、親以外は驚くほど悲しまない。
「はいはい、男として脱落したのね」くらいの、乾いた処理が走る。
つまり、男性器は特権物のように見せかけられながら、守られてはいない。
軽いから笑われ、軽いから失われても惜しまれにくい。
女性外性器と内性器は、逆に重すぎる
では女性側はどうか。
こちらは逆だ。
女性外性器や内性器には、
- 神聖性
- 母性
- 生殖
- 純潔
- 聖域
- 傷つきやすさ
といった意味が、過剰に貼り付いてきた。
その結果、女性器は「大切にされている」ようでいて、実際には
- 過保護に監禁される
- 物語を背負わされる
- 神秘化される
- 当事者の身体負荷が消される
という形で苦しめられる。
私はここで、女性器を「守られている」とは言いたくない。
重すぎるだけだと思っている。
男性器は軽すぎる。
女性外性器・内性器は重すぎる。
どちらも、ただの身体として丁寧に扱われていない。
だから「全肉平等」が必要になる
私が本当に言いたいのは、ここだ。
私は、女性器を軽く扱えと言いたいのではない。
男性器を神聖化しろと言いたいのでもない。
そうではなく、どちらもまず肉として見ろと言いたい。
もちろん、文脈はある。
性的な押しつけと、自己表現と、アートと、証言は同じではない。
私は「文脈など全部捨てろ」とは言わない。
だが、現状の社会は、文脈を見ているふりをして、実際にはアイデンティティ政治に都合のよい物語だけを保護している。
だから算数が狂う。
私にとって大切なのは、
- 露出された身体を、属性で格付けしないこと
- ある肉体だけを「政治的に正しい露出」として優遇しないこと
- 女性の身体負荷を、記号の神秘化で消さないこと
である。
女性インフラを、救済神話の器にしないでほしい
この話は、女子トイレや女子化粧室の赤いアイコンの話とも繋がっている。
私は最近、女性用の赤いアイコンに対して、あまりに文学的で祭祀的な物語を載せるトランスジェンダー女性達の語りに、強い疲労を感じている。
「赤いアイコンの向こうで穏やかに笑いたい」「女の子の場所に入りたい」「そこが正解の場所だ」という語りは、その人の苦痛としては本物なのだろう。
だが、HPO側の身体からすると、そこはまず
- 出血対応
- 下腹部痛
- 漏れ確認
- 眠気
- 冷え
- 身体管理
- 男性から一時退避するための生活インフラ
である。
私は、1か月級の不正出血を経験したばかりの身体として、ここに物語を総載せされると、正直うんざりする。
こちらは赤いアイコンの向こうで神秘的に微笑んでいるのではない。
血を処理し、漏れないように管理し、身体をなんとか回しているのである。
女性の身体負荷を見ないまま、女性記号だけを「聖域」「救済」「安らぎ」として使うのは、かなり乱暴だ。
ジェンダー政治は、肉体をまた意味づけの牢獄に戻している
フェミニズムは本来、肉体に貼られた意味を剥がすための運動だった。
「良い女性器」「悪い女性器」などない。
「乳首はただの乳首だ」。
本来はその方向だったはずだ。
なのに今は、また別の形で、
- この肉は良い肉
- この露出は正しい露出
- この身体は保護される身体
- この身体は脅威の身体
と、意味づけが戻ってきている。
私はこれを、かなり強い逆流だと感じる。
解放の名のもとに、肉体がもう一度、文脈と政治の牢獄へ押し戻されている。
まとめ
Ethel Cain の投稿をめぐる違和感は、単なる「トランス女性だから許されたのか」という感情的反発では終わらない。
そこには、もっと深い問題がある。
- 男性器は軽すぎる
- 女性外性器・内性器は重すぎる
- どちらも身体として丁寧に扱われていない
- 社会は肉ではなく看板を見ている
- そして女性の身体負荷だけは、記号遊びの外で黙って残る
この非対称性を見ないまま、「表現の自由」や「可視性」だけを語っても、私は整合しないと思う。
必要なのは、男性器を神聖化することではない。
女性器をさらに神秘化することでもない。
どちらもまず肉として見て、そこから生活、負荷、安全、文脈を丁寧に分けて考えることだ。
私はそれを、少し乱暴に「全肉平等」と呼びたい。
看板ではなく、まず肉を見ること。
そこからやり直さないと、ジェンダー政治は、いつまでも肉体を新しい意味づけの牢獄に閉じ込め続けるだろう。

コメント