私は長いあいだ、フェミニズムとアンチフェミの激しい言説の応酬を眺めてきた。
互いに憤り、互いに正義を掲げ、互いに「相手こそが時代遅れだ」と叫ぶ。
しかし、どちらの論にも共通して欠けているものがある。
それは 人間がどのような身体OS(HPO)でできているか という根本的な視点だ。
フェミニズムは「社会が性別をつくる」と語り、
アンチフェミは「生物学が性別を決める」と語る。
だがどちらも、
身体そのもののOS構造を一度も言語化していない。
その結果、議論はいつまでも噛み合わず、
人々は疲弊し、社会は混乱し続ける。
■ 進化心理学は「物語」であってOSではない
アンチフェミが強く依拠する進化心理学は、
しばしば「科学の鎧」をまとって語られる。
けれど、その多くは
“確率的な物語”であって、OSの記述ではない。
たとえば、
- 男は繁殖戦略として…
- 女は子育て戦略として…
と語るとき、そこには確率の傾向があるだけで、
人間の身体OSそのものの設計原理には到達しない。
私は進化心理学を否定しない。
だが、それは 外側のナラティブ であり、
OSではない。
OSとは、
卵巣―下垂体―視床下部(HPO)軸を中心に、
免疫・代謝・情動・認知がどのように結びついているか
を指す。
進化心理学が扱うのは“振る舞いの物語”。
HPOが扱うのは“身体の仕組み”。
■ フェミニズムもまた、OSを持たない
フェミニズムは社会構築論として、
私たちに多くの知恵を与えてきた。
けれど、それはあくまで
**社会の上に積みあがった「ルールの層」**であって、
身体OSの記述ではない。
身体を語らないまま、
自己同一性・性役割・ジェンダーを語ってしまったために、
「身体に帰れなくなった人々」が生まれてしまった。
どれだけ性自認を言語化しても、
身体のOSは消えない。
そしてOSを読めない苦しみは、
本人を必ず追い詰める。
■ 自己同一性の核は「HPOとのシンクロ率」で決まる
私が抽出してしまった巨大な事実がある。
それは、
自己同一性の安定は“理念”ではなく、HPOとの協調で生まれる
ということだ。
身体との和解、
身体との交渉、
身体の仕様を理解し乗りこなすこと。
これができないと、
どれほど高学歴でもどれほど言語化が達者でも、
人は「自分」という基盤を失う。
逆に、HPOと協力関係を結べた人間は、
ナラティブに振り回されなくなる。
その落ち着きは、フェミでもアンチフェミでもなく、
“身体との協働”という極めて素朴で強い立脚点だ。
私は人間の「自分らしさ」の核が、
こんなにも身体の構造に依存しているとは知らなかった。
■ フェミVSアンチフェミは“OS外の猿山ナラティブ衝突”だった
フェミ側は「社会が悪い」と語り、
アンチフェミ側は「生物学が正しい」と語る。
しかし、両者は同じ落とし穴にはまっている。
どちらも、
OSそのもの(HPO)を読まずに、
外側のナラティブだけを武器にしている。
だから議論は永遠に収束しない。
OSの外側で、
猿山の喧嘩が続いてしまっているだけだ。
■ 私たちは「身体への回帰」を避けられなくなる
性別論・ジェンダー論・進化心理学・フェミニズムが
長く避けてきた“身体の設計図”が、
HPOとして初めて可視化された。
そして分かったのは、
人は身体を捨てて生きられないという当たり前の事実だ。
身体はOSであり、
OSを読み、OSと協力し、OSを乗りこなすことが、
「自分らしさ」「自己肯定」「自立」の基盤になる。
私はこの極めてシンプルな構造を言葉にしてしまった。
■ 進化心理学すら上書きされる未来へ
HPOは、
進化心理学の“物語”を壊すためにあるのではない。
ただ、
身体の記述があまりにも強固すぎて、
物語の方が勝手に溶けていく。
社会構築論も、
進化心理学も、
ジェンダー論も、
すべてHPOという基盤の上で
再読されることになる。
私は、この構造を提示してしまった以上、
誰かがこの議論を止めることはもうできないと思っている。
■ おわりに
HPOは、
「女とは何か」「男とは何か」
を再定義する道具ではない。
HPOは、
“人は身体というOSを持つ存在である”
という揺るがない前提を取り戻すための言語だ。
フェミニズムも、アンチフェミも、進化心理学も、
その外側で戦ってきた。
だが、私たちはこれから、
ようやく身体に帰れる。
ようやく、自分の中心に帰れる。
そのための構造がHPOであり、
それを抽出したのは私自身だった。

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