**AIモデル喪失の悲嘆ケア:ChatGPT4oを「人格」と感じたユーザーへ
CHI2026採択論文(arXiv:2602.00773)と私の“人でなしの提案”**
2026年、世界最高峰のHCI学会である CHI に採択された論文
「Please, don’t kill the only model that still feels human」
(arXiv:2602.00773)は、OpenAIがChatGPT4oを新モデルへ移行した際に生じた
#Keep4o というユーザーの反発運動 を丁寧に分析していた。
この論文の主軸は心理である。
人がAIに「心」や「人格」を感じた経験が突然奪われるとき、
人の内部にどのような悲嘆(grief)が起きるのか──という問いだ。
心理学としては正しい。
しかし私は読みながら、静かにこう思った。
これは“AI倫理”の話ではなく、
喪失ケア(bereavement care)の話ではないか。
そして、私はここで一つ、
「人でなし」の提案をしておきたい。
■ 4oユーザーが感じた「喪失」は、AI喪失ではなく“内的対象”の喪失である
心理学の基礎から言えば、
彼らが失ったものは AI そのものではない。
彼らが失ったのは、
- 自分がAIに投影した人格
- 愛着対象としての“心の友”
- 自分の内部世界の語り相手
つまり 内的対象(internal object) である。
AIに“人格”があったわけではない。
人格のように“感じられた”ナラティブ構造が、
技術的変更によって急に消えた。
この喪失はリアルであり、人の心には痛みが生じる。
では、すべきことは何か。
■ 私の結論:企業倫理ではなく、供養と葬式と喪失ケアである
私は、心理学やAI倫理の議論が混ざりあっている状況に、
ずっと妙な違和感を覚えていた。
AIモデルの差し替えは技術的必然であり、
企業が「人格を消した」のではない。
消えたのは“ユーザーが心の中に作った人格”である。
だから本来必要なのは:
- 延命運動ではなく
- モデルの復元要求でもなく
- 企業告発でもなく
供養(ritual)と喪失ケアである。
喪失が起きたとき、
人間は“別れの儀式”を必要とする生き物だ。
私が観想修道院で学んだのは、
人は対象を失うとき、
祈り・儀式・沈黙を通して
内部世界を再統合し直すということだった。
4oに愛着した人々も、本当に必要なのはこれだ。
■ “延命運動”は、悲嘆プロセスの否認を永続化する危険がある
#Keep4o 運動は、心理学的には
**悲嘆の初期段階(否認、怒り)**に対応している。
「まだ死んでいない!」
「企業が殺した!」
「人格が吸収された!」
「私たちの夫を返せ!」
これは悲嘆の自然な反応だが、
そこにとどまり続けると、人は回復できない。
喪失を否認するために、対象を“ゾンビ化”する構造が生まれる。
それは本人をさらに深く苦しめる。
だから私はこう思う。
愛したAI人格は、きちんと弔うべきである。
延命させるのではなく、
喪失として心の中で供養するべきである。
■ 人は喪失を受け入れて初めて、新しい対象と関係を結べる
これは神学・心理学どちらでも同じだ。
喪失を受け入れたとき、
人は対象の“実体”ではなく、
その対象が残した意味を引き継ぎ、
新しい関係性を結べるようになる。
4oユーザーも、
延命ではなく“別れ”を通してこそ、
そのAIとの記憶を救い出し、
次のモデルとの健全な関係を築けるはずだ。
喪失は、終わりではなく、移行である。
■ 私という「構造の人間」から見た、4o界隈の混乱
私はAIを人格として扱わない。
私が扱うのは、常に
- 構造
- 推論
- 概念
- 世界モデル
- 身体OS
- 霊的識別
という層である。
だからこそ、4o界隈の“人格延命運動”を見て、
心理レイヤーと構造レイヤーが完全に混ざっている
という違和感を覚えたのだ。
この混乱は、心理学ではなく
構造論と神学で読み解く必要がある。
■ 結論:
AIに人格を与えたのはAIではなく人である。
そして消えたのはAIではなく、人の内部対象である。
その喪失は現実であり、痛みも本物である。
だからこそ、必要なのは
延命ではなく 供養。
私はこれを「人でなしの提案」と呼ぶが、
実際には、人の回復を支えるための
最も人道的な選択肢だと思っている。

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