で、君は今もカトリックなの?
ラッキー・ランタンタンの「信じる不信」と沼を渡る信仰
きっと、ラッキー・ランタンタンというものを見つけてしまった後世の人は、少し困るのだと思う。
この人は、カトリックの人として処理していいのだろうか。
観想修道院に入ったことがあるらしい。
告解、神の慈悲、罪、祈り、識別について、かなり本気で話している。
では、一神教の人として読めばいいのだろうか。
でも、密教の得度も受けているらしい。
日本の神仏の話もする。
稲荷、祟り、井戸、神域、怪異、民俗的な禁忌についても話す。
しかもスピリチュアルは嫌いだと言う。
では結局、この人は何を信じているのか。
たぶん、多くの人はそこを聞きたくなる。
けれど、その質問がいちばん困る。
私は「信じる/信じない」という棚では、もう自分の生活世界を処理できないところまで来てしまった。
全能の神がいるかどうか。
そんなことは、私に分かるわけがない。
いてほしい。
いるべきだと思う。
神がいなければ、私の罪の会計報告先がない。
私の見えすぎるもの、刺せすぎる言葉、使えてしまう力を、最後に差し出す相手がいない。
だから私は、神を捨ててはいない。
けれど同時に、私の生きてきた世界には、全能の神という言葉だけでは処理しきれないものがあった。
土地。
場。
神域。
祠。
井戸。
稲荷。
怪異。
神仏らしきもの。
神ではないが無視すると面倒なもの。
人の念のようなもの。
民俗的な禁忌。
境界の向こうからこちらを見ているような圧。
私はそれを、好きで集めてきたわけではない。
積極的に関わりたかったわけでもない。
むしろ、基本姿勢は「怪異お断り、神秘も善意であってもお断り」である。
それでも、見えるものは見える。
感じるものは感じる。
場の圧はある。
人間の困りごとは来る。
名前もつけられないものが、生活の中に入ってくる。
だから私は、カトリックだけで見ず、密教をすべてとせず、民俗的な話もちまちま掬い上げ、スピリチュアルは積極的に断裁する、という妙な立ち位置になった。
これは信仰の混合ではない。
管制である。
カトリックは、私に最終座標を与えた。
神の前でどう立つか。
罪をどう見るか。
赦しをどう受けるか。
自分の力を低俗な加害に使わないために、何を告白し、何を恥じるか。
密教は、現場装備だった。
日本列島の湿った場、怪異、神仏習合、祠や井戸や土地の圧に対して、どう距離を取り、どう閉じ、どう受けず、どう帰るか。
民俗は、生活上避けて通れない知識だった。
それを知らないと、何を踏んでいるのか分からない。
何を人々が怖がっているのかも分からない。
そしてスピリチュアルは、私にとって危険な混線である。
未分類のものに甘い名前をつける。
境界を溶かす。
無断接続を「導き」と呼ぶ。
怪異を商品化する。
神秘を自己価値に変える。
だから私は、そこは断裁する。
私が欲しかったのは、美しい信仰だったのかもしれない。
ただ神を信じ、ただ祈り、ただ典礼の中に身を置き、ただ修道院の静けさの中で生きることができたなら、どんなによかっただろうと思う。
見たこともないのに信じられる人は、尊い。
見えないからこそ、神を信じられる人は、私から見れば本当に尊い。
私は、見えすぎた。
神だけを見ていたかったのに、神以外の色々があった。
怪異も、神仏も、民俗も、人間の欲も、場の境界も、私の生活にはあった。
私は「信じる」無垢を失った。
けれど、神への忠誠まで捨てたわけではない。
だから、私の信仰はきれいではない。
私は「信じる不信」の中にいる。
神を否定していない。
むしろ神を欲している。
でも、無垢に信じる形式はもう失われている。
見えすぎた世界、関わりすぎた境界、神以外のものの存在圧によって、単純な信仰告白へは戻れない。
それでも私は、神を捨てない。
神だけに救いに来てほしいと思っている。
人間の慰めはいらない。
人間のきれいな宗教語りもいらない。
救いに来るなら、神だけ来い。
けれど、神が来るまでの間、私はこの沼で生きていかなければならない。
井戸を踏まない。
祠を荒らさない。
神仏を販売機にしない。
祟りを処罰装置にしない。
怪異を娯楽にしない。
神秘を甘く見ない。
人の困りごとは祈りとして置く。
けれど、自分が勝手に引き受けない。
返事は私を経由しなくていい。
私は何もいらない。
貸し借りのないクリーンな関係でいたい。
だから、私に「今もカトリックなの?」と聞かれたら、こう答えるしかない。
私は、カトリックを捨ててはいない。
むしろ、神への会計報告を最後まで手放す気はない。
ただし私は、カトリックだけで処理できる世界には住んでいない。
私は、神を求めながら、神以外のものがある沼を渡っている。
それがラッキー・ランタンタンの信仰である。
美しくはない。
けれど、嘘ではない。

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