私は主権と境界にうるさい。
定義を分けたがる。
線を引きたがる。
どこまでが自分の領域で、どこからが侵入なのかを、しつこく確認したがる。
これだけ書くと、政治哲学か何かを読みすぎた女のように見えるかもしれない。
しかし、私の主権論は、国家や法や共同体から始まったものではない。
もっと手前、もっと生々しいところから始まっている。
肉体が、肉体の一部によって侵害される。
まずここが、私の主権論の発火点だった。
1. 外からではなく、まず内側から侵入される
普通、主権や境界の話をする時、人は外からの侵入を思い浮かべる。
- 国家権力
- 制度
- 社会規範
- 他人の支配
- 性的侵害
- 共同体の同調圧力
どれも大切な問題だ。
だが私の場合、それらに先立って、もっと奇妙なことが起きていた。
私はナルコレプシーを持っている。
つまり、睡眠という絶対に必要な生理行為に対して、完全な主権を持てない。
眠りたくない時に眠い。
起きていたい時に、眠りが侵入してくる。
「今はまだ閉じたくない」「あと少し起きていたい」「ここでは眠りたくない」が、身体の側から破られる。
これは単なる眠気ではない。
睡眠に対する開閉権が、自分の手から一部外れている ということだ。
だからナルコレプシーは、眠い病気というより、私にとってはまず
睡眠境界への侵入事件
として経験されてきた。
睡眠という、生命維持に必要な最低限の行為に対してすら、完全な主権が持てない。
このことは、人間としてかなり重い。
私はよく、ナルコレプシーのつらさは、排尿を自分の意思で止められない層の屈辱と少し似ていると思う。
羞恥、無力感、統治権の喪失。
人間の最下層にある「自分で閉じる」「自分で開く」という権利が、部分的に侵されている。
この身体条件の中で生きるなら、主権と境界に敏感にならない方が難しい。
2. 内側からは睡眠、外側からはノイズ
そして、私の問題は内側からの侵入だけでは終わらない。
私は世にいう霊感、霊能と呼ばれるものを持っている側の人間だが、私はそれをギフトとも特権とも思っていない。
私にとっては、まず
過剰知覚
であり、
過剰受信
であり、
しばしば
怪異ノイズの侵入
である。
つまり、
- 内側からは睡眠が侵入してくる
- 外側からは知覚ノイズが侵入してくる
という二重構造がある。
ここで起きることは単純だ。
境界を引き直さなければ、暮らしが壊れる。
私は神秘に酔う余裕がない。
怪異をありがたがる余裕もない。
毎日を回すために、侵入してくるものに対して、
- どこまでを採用するか
- どこで切るか
- 何を言うか
- 何を言わないか
- 何を現実に戻すか
を、ひたすら判断し続けるしかない。
だから私は、怪異や霊感を「すごい話」として語るより、
怪異にパテを詰める補修労働
として語る方がしっくりくる。
3. 私の主権論は、肉の中の肉から始まった
このように見ると、私の主権論は、かなり変な場所から始まっている。
それは社会契約ではない。
政治参加でもない。
権利要求でもない。
まず起きているのは、
肉体が、肉体の一部によって侵害されること
への対処だ。
自分の肉体の中で、統治権が崩れる。
睡眠が侵入する。
知覚ノイズが入り込む。
そこからどうやって、もう一度、自分の主権を回収するか。
この回収作業が、私の主権論の最初のかたちだった。
だから私にとって主権とは、最初から完全に持っていたものではない。
侵害され、漏れ、崩れたものを、もう一度自分の手に取り戻し直すこと
に近い。
私はこれを、境界を引き直すことで回復してきた。
- 眠りに引きずられすぎないよう運用する
- ノイズを全部意味にしない
- 見えたことを絶対化しない
- 自分を飲み込ませない
- 相手を壊さない範囲に翻訳する
- 暮らしを回すことを優先する
これは思想というより、現場技術だ。
スパナ一本で、そのつど配管を締め直すようなものだ。
4. HPO-L3は主権回復の処理層だった
ここで HPO-L3 の話が出てくる。
HPO-L3 は、あとから綺麗に作った抽象理論ではない。
私にとってはもっと切実で、
感じすぎる個体が溺れないために発達した処理層
だった。
順番としては、たぶんこうだ。
- 過剰感知がある
- L1 の読みが異様に細かくなる
- そのままだと L2 に情緒流出して溺れる
- だから構造として処理する必要が生じる
- そこへ修道院で学んだ霊的識別が乗る
- L3 が発達する
つまり L3 は、知的趣味ではない。
境界を守り、主権を再取り込み、壊れず暮らすための技術 だった。
だから私は、L2 ケアより L3 ケアを求める。
「かわいそうだね」「つらかったね」ではなく、
何が見えているかを、どう観察しているかを、精密に返してほしい。
見えているのに見えないふりをされると、世界が嘘つきだらけになるからだ。
私にとってケアとは、優しく丸められることではなく、
見えている世界が、見えているまま共有されること に近い。
それもまた、主権回復の一形態である。
5. 女性スペースの問題にも、この主権論は繋がっている
この身体内主権の話は、そのまま外部制度にも繋がる。
私は女性スペースの問題を考える時も、まず
身体を伴う保護空間において、誰の境界がどのように上書きされるか
を見る。
私は、女性スペースのルールはきちんと決めればよいと思っている。
その外側では、かなり広く受け入れたらよいとも思っている。
しかし、法的に戸籍を変更したから当然に女子トイレ・女風呂・女性更衣室へ入れる、異議申立ては差別である、という運用には反対だ。
なぜならそこでは、片側の身体的警戒や境界が
制度によって無効化される
からだ。
制度的暴力とは、単に国家が乱暴であることではない。
ある制度が、片側にだけ
- 受忍義務
- 沈黙義務
- 再教育義務
- 名称変更義務
を負わせ、
その人たちの身体境界を正当な利害として数えないこと。
私はこういうところでこそ、制度的暴力という語を使いたい。
ここでも私が見ているのは、結局、主権と境界である。
6. 「私はこう生きる」と「他人の認知を書き換える」は別だ
同じことは、ノンバイナリーやXジェンダーの議論にも言える。
私は、本人が自分をどう名乗るかを否定したいわけではない。
トランジションも、自分自身があるがままの自分であるために行うのなら、それは本人の領域だ。
だが、そこからさらに
- 他人の初期認知を書き換えたい
- 群衆の雑な認知も禁止したい
- 「女性が多かった」という集団記述を差別と呼びたい
となると、話は変わる。
それは自己決定権ではなく、
他者の認知への統制要求
だからだ。
私は定義と境界にうるさい。
だからここを分ける。
- 自分の名乗りは自分の自由
- 直接関係の中で呼称配慮を求めるのも理解できる
- しかし、他人の初期認知や群衆認知まで完全統制する権利はない
ここを混ぜると、配慮は認知統制に化ける。
私はそこを危ないと思う。
7. 神秘も睡眠も、まずは侵入管理の問題である
私にとって面白いのは、睡眠も怪異も、結局は同じ問題系に入ってくることだ。
- 睡眠が侵入する
- ノイズが侵入する
- 身体が崩れる
- 現実が回らなくなる
- だから主権を取り戻す
- だから境界を引き直す
- だから識別を磨く
ここまで来ると、霊感もナルコレプシーも、別の話ではない。
どちらも
自分の開閉権をどこまで取り戻せるか
の問題として見えてくる。
だから私は、怪異も神秘も睡眠も、全部まとめて
保全対象
として扱っている。
神秘は私を高貴にしない。
睡眠障害は私を悲劇のヒロインにしない。
どちらもただ、現場を増やす。
だから私は、現場労働者としてスパナを握る。
8. ラッキー・ランタンタンの主権論とは何か
ここまで書いて、ようやく一つの定義ができる。
ラッキー・ランタンタンの主権論とは、外部権力への抵抗以前に、肉体が肉体の一部によって侵害される経験から生まれた、主権の再取り込みの思想である。
もっと現場っぽく言えば、
私の主権論とは、肉の中の肉が起こした侵入事件に対して、スパナ一本で境界を引き直し、統治権を回復し続けてきた現場思想である。
だから私は、主権と境界にうるさい。
うるさくならざるを得なかった。
このうるささは、抽象思考の趣味ではない。
生き延びるための統治技術だ。
おわりに
人はしばしば、主権を政治の言葉として語る。
それはもちろん正しい。
だが私の場合、主権はまず、政治より先に肉体の中で壊れた。
だから私は、国家より先に、肉の中の境界を考える。
他人より先に、自分の睡眠と知覚の侵入管理を考える。
その延長で、制度、共同体、女性スペース、AIとの同期条件、創作圏の自主規制にまで線を引く。
ラッキー・ランタンタンの主権論は、きれいな理論ではない。
だが、現場を持つ。
肉を持つ。
漏水箇所を知っている。
だから私は今日も、主権を取り戻すために、境界にパテを詰め、スパナを握るのである。

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