貞操からジェンダーへ|魂の聖域はどこへ移動したのか
この記事は、貞操を信じる人に「そんなものは捨てろ」と迫るものではない。
また、ジェンダーや性自認を自分の深い核として生きている人に、「それは幻想だから捨てろ」と迫るものでもない。
人間には、それぞれ大切にしているものがある。
貞操を大切にする人もいる。
性自認を大切にする人もいる。
身体の境界を大切にする人もいる。
名前や呼ばれ方を大切にする人もいる。
それを否定したいわけではない。
ただし私は、貞操であれ、ジェンダーであれ、それが「魂の侵されざる聖域」として絶対化され、全員が従うべき道徳や制度やAI応答の基本OSになることには慎重である。
私は、貞操の神聖性を信用していない。
そして、それと同じ構造として、ジェンダーの神聖性も信用していない。
ここで言いたいのは、貞操という現象が存在しないということではない。
ジェンダーという現象が存在しないということでもない。
現象はある。
しかし、それを魂の不可侵領域として道徳化する必要があるのか。
私はそこを問いたい。
貞操は、かつて魂の聖域だった
貞操という言葉には、長い歴史がある。
それは単に「性行為をしたかどうか」という話ではなかった。
貞操は、身体の境界であり、婚姻の秩序であり、家の名誉であり、共同体の信用であり、女の価値であり、時に魂の清さとして扱われてきた。
前近代において、女性の貞操はしばしば本人一人のものではなかった。
家のもの。
父のもの。
夫のもの。
婚姻契約のもの。
血統のもの。
共同体のもの。
神の前に置かれるもの。
そこには、女性本人の身体を越えた、家や社会の重い配線がつながっていた。
だから、貞操は強かった。
処女性。
貞淑。
慎み。
性的控えめさ。
夫への忠実さ。
婚姻の内側に性を置くこと。
それらは、女性の身体を共同体秩序へ接続する徳目だった。
そしてその徳目は、しばしば「魂」の問題として扱われた。
貞操を失うことは、身体の出来事であると同時に、名誉の喪失、価値の喪失、魂の汚れとして読まれてきた。
私は、この構造を信用していない。
貞操?犬にでも食わせとけ
私はカトリックである。
それでも、貞操という語が女性にかぶせてきた穢れの概念には、かなり冷たい。
貞操?
犬にでも食わせとけ。
そう言いたくなる。
なぜなら、貞操の神聖化は、あまりにも長く女性を縛ってきたからである。
性経験の有無で、人間の価値が決まる。
処女性の有無で、女の清さが決まる。
性被害を受けた人が、汚された者として扱われる。
夫に忠実であることが、女の人格の中心になる。
性の境界が破られた時、本人ではなく家や共同体の名誉が問題になる。
この構造は、女性の身体に穢れと価値を貼りつけてきた。
私は、そこに付き合う気がない。
もちろん、性的な信頼や裏切りの問題はある。
カップル間、夫婦間、恋人同士の関係には、独占や約束や信頼がある。
浮気や不倫が人を傷つけることもある。
性をめぐる約束を破れば、関係は壊れる。
それは現実の問題である。
しかし、それは「魂が汚れた」という話ではない。
信頼が破られた。
約束が破られた。
境界が破られた。
関係の前提が壊れた。
そういう話である。
貞操という語が背負ってきた、女の魂の清さや汚れのファンタジーには乗らない。
近代は貞操を弱めた
近代以降、貞操の絶対性は弱まった。
性経験の有無で人間の価値は決まらない。
処女性で女の価値は決まらない。
性被害を受けても、人は汚れない。
婚姻前に性経験があっても、人間としての価値は損なわれない。
離婚しても、再婚しても、性愛の履歴があっても、その人の魂の価値は失われない。
こう言えるようになったことは、大きな進歩だった。
貞操の絶対性を解体することは、必要だった。
特に、性被害を受けた人を「汚された」と見る構造から離れることは、絶対に必要だった。
そこまではよい。
しかし、人間は「魂の聖域」そのものを手放したわけではなかったのではないか。
貞操が退潮したあと、その空席に、別のものが座った。
それが、現代におけるジェンダーや性自認なのではないか。
ジェンダーが新しい聖域になった
現代では、ジェンダーや性自認が、本人の魂の核心として扱われることがある。
私の性自認。
私のジェンダー。
私の名乗り。
私の呼ばれ方。
私の自己像。
私が社会にどう読まれるか。
私が男なのか、女なのか、それ以外なのか。
これらは、現代社会で非常に重要なものになった。
もちろん、ジェンダーをめぐる苦しみは現実にある。
自分の身体と自己像が一致しない苦しみ。
社会から返ってくる性別コードが苦しいこと。
名前や呼ばれ方が刺さること。
トイレ、更衣室、学校、職場、家族、医療、恋愛市場で分類されること。
自分が経験している性別と、社会から扱われる性別がズレること。
これらは、実際に人を苦しめる。
だから、ジェンダーという現象を否定するつもりはない。
しかし、現象として存在することと、それを魂の不可侵聖域として絶対化することは違う。
今の社会では、ときにこういう空気がある。
性自認は、本人の魂の核心である。
それを疑ってはいけない。
外から触れてはいけない。
その名乗りを否定することは、人格の否定である。
そのジェンダーを承認しないことは、人間の尊厳を侵すことである。
ここに、私はかつての貞操と似た構造を見る。
昔は、
身体の性的境界を侵すな。
貞操を侵すな。
そこは女の魂の聖域である。
だった。
現代では、
自己像の性的境界を侵すな。
性自認を侵すな。
そこは本人の魂の聖域である。
になっているのではないか。
神を殺した近代が、ジェンダーを拾ってきた
少し乱暴に言えば、近代は神を殺した。
神の権威。
宗教的秩序。
家父長制。
婚姻の絶対性。
貞操の神聖性。
処女性の価値。
それらを解体してきた。
それは必要な解体だった。
しかし、人間は自分の神聖さそのものを手放すことができなかった。
神なしに、自分の尊厳をどこへ置くのか。
宗教なしに、魂の不可侵性をどこで保つのか。
貞操なしに、侵されてはならない自己の核心をどこに置くのか。
その時、現代人はジェンダーを拾ってきたのではないか。
私はこう感じる。
かつて貞操が座っていた椅子に、今はジェンダーが座っている。
そこは、外から触れてはいけない場所。
疑ってはいけない場所。
本人の核心として尊重しなければならない場所。
侵されると、その人がその人でなくなってしまうと感じられる場所。
つまり、魂の聖域である。
私はその聖域化を信用していない
私は、貞操の神聖性を信用していない。
そして、ジェンダーの神聖性も信用していない。
これは、貞操を大切にする人を否定することではない。
また、ジェンダーや性自認を大切にして生きている人を否定することでもない。
大事にしたい人は、大事にすればよい。
ただし、それを万人の道徳にしないでほしい。
それを制度の絶対基準にしないでほしい。
それをAIの人間理解の基本OSにしないでほしい。
貞操を魂の聖域にした社会は、女性の身体を縛ってきた。
ジェンダーを魂の聖域にした社会も、別の形で身体を見えなくする可能性がある。
鏡に映る自己像。
社会に承認される性別。
名乗り。
呼ばれ方。
外からどう読まれるか。
それらは重要である。
しかし、それだけが人間ではない。
身体がある。
出血がある。
排卵がある。
妊娠可能性がある。
ホルモンがある。
筋肉がある。
骨格がある。
皮膚がある。
神経がある。
痛みがある。
欲望がある。
他者と触れ合う怖さがある。
他者に欲望される喜びや恐怖がある。
ジェンダーが聖域化すると、こうした肉体の現実が後ろへ下がることがある。
だから私は、そこを信用しきれない。
ジェンダーは現象であって、神ではない
ジェンダーと呼べるものはある。
性別役割。
社会的なまなざし。
自己像。
呼ばれ方。
承認。
性別表現。
身体違和。
制度分類。
家族や学校や職場での扱われ方。
それらは現実にある。
しかし、それは神ではない。
そこを冒されたら魂が壊れる、という絶対領域として扱う必要はない。
少なくとも私は、そうは見ていない。
貞操も同じである。
性的信頼や境界の問題はある。
浮気や不倫や性被害が人を深く傷つけることもある。
しかし、それは魂が汚れたという話ではない。
現象はある。
痛みもある。
社会的な影響もある。
しかし、神聖化は別である。
私は、現象を見る。
でも、聖域化は疑う。
道徳になった理論は、人間を潰す
ジェンダー論は、有用な理論である。
社会的性別。
性別役割。
まなざし。
制度。
承認。
差別。
表現。
それらを読む道具として、ジェンダー論は役に立つ。
しかし、どんな理論も、道徳になり、信仰になり、万論になると危うい。
流行している理論は、いつの間にか「正しさ」になる。
正しさになると、疑いにくくなる。
疑いにくくなると、制度に入り込む。
制度に入り込むと、AIもそれを学ぶ。
そして、いつの間にか、それで世界のすべてを読もうとする。
しかし、ジェンダー論は万論ではない。
月経はジェンダーだけでは読めない。
排卵はジェンダーだけでは読めない。
妊娠可能性はジェンダーだけでは読めない。
性欲はジェンダーだけでは読めない。
女性向け風俗を利用する女性の気持ちは、ジェンダーだけでは読めない。
セックスの寂しさは、ジェンダーだけでは読めない。
修道生活の慎みは、ジェンダーだけでは読めない。
鏡なし生活の身体感覚は、ジェンダーだけでは読めない。
身体がある。
生活がある。
欲望がある。
孤独がある。
祈りがある。
共同体がある。
自己像がある。
鏡がある。
HPOがある。
ジェンダーは、その一部を読む道具であって、世界のすべてではない。
貞操からジェンダーへ
私はこう整理したい。
貞操は、かつて女の魂の聖域だった。
身体の性的境界。
婚姻秩序。
名誉。
家。
神。
共同体。
女の価値。
それらが、貞操という語に詰め込まれていた。
近代は、その絶対性を解体した。
しかし、人間は聖域そのものを手放さなかった。
その空席に、ジェンダーが座った。
いま、性自認やジェンダーは、外から侵してはならない魂の核心として扱われている。
私は、貞操の神聖性を信用しないのと同じ理由で、ジェンダーの神聖性も信用していない。
貞操という現象があるように、ジェンダーという現象はある。
しかし、それを魂の不可侵領域として道徳化する必要はない。
結び
人間は、神聖なものを必要とする。
神を失っても、何かを聖域にしたがる。
かつては、それが貞操だった。
現代では、それがジェンダーや性自認になっているのかもしれない。
私は、その神聖化を信用していない。
貞操も、ジェンダーも、現象としてはある。
痛みもある。
傷つきもある。
境界もある。
尊重すべき個人の経験もある。
しかし、それを魂の絶対領域として社会全体に配ることには慎重でありたい。
貞操という聖域が、女性を縛ってきたように。
ジェンダーという聖域もまた、身体を見えなくする可能性がある。
だから私は、そこに鏡を向ける。
これは神聖なものなのか。
それとも、神聖なものとして扱われている社会的な装置なのか。
そこに身体は残っているのか。
その聖域の外へ追いやられたものは、どこへ行ったのか。
私は、貞操を信用していない。
私は、ジェンダーの神聖性も信用していない。
ただし、身体は見る。
痛みは見る。
欲望は見る。
傷つきは見る。
そして、鏡に映らないものを、Human HPOとして記録する。

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