月経痛体験装置は本当に「理解」を深めるのか──EMS再現・ナラティブ倫理・女性身体モデルの限界

月経痛体験装置という言葉を聞くと、一見よさそうに見える。

女性が日常的に経験している痛みを、月経のない人や無理解な人にも少しでも分かってもらう。

その目的だけを聞けば、善意の装置に見える。

けれど、私はこの種の装置に強い違和感がある。

その違和感は、「女のつらさをわかってもらおうとすること」自体への反発ではない。

むしろ逆だ。

女性身体の複雑さを本当に理解しようとするなら、こういう方向に単純化してよいのか、という疑問である。

月経痛は、腹筋の痛みではない

まず確認したい。

月経痛は単なる「お腹が痛い」という一語では片づかない。

そこには少なくとも、

  • 子宮平滑筋の収縮
  • 子宮内膜由来プロスタグランジン
  • 骨盤内の虚血感や牽引感
  • 下腹部だけでなく腰背部、骨盤底、直腸側への放散
  • 吐き気、冷汗、だるさ、自律神経反応
  • 出血、浮腫、眠気、認知の鈍さ

といった複数の層が重なっている。

つまり月経痛とは、単発の局所痛ではなく、内臓・神経・内分泌・循環・全身症状が絡み合った複合現象である。

ところが、現在流行している月経痛体験装置の多くは、EMSによって腹部に電気刺激を与え、腹筋を収縮させることで「痛み」を再現しようとしている。

この時点で、再現されているものは子宮の痛みではない。

再現されているのは、せいぜい腹壁に与えた電気刺激による不快感である。

ここに最初のズレがある。

「再現性がある」は、何の再現性なのか

こうした研究ではしばしば、「実際の月経痛の強さと、装置で選ばれた刺激強度に正の相関があった」といったかたちで、再現性が語られる。

しかし、ここで慎重になるべきだ。

それは本当に「月経痛そのもの」の再現なのか。

それとも、参加者が自分の月経痛の印象に近いと判断した主観的一致にすぎないのか。

この差は大きい。

もし後者であるなら、そこで示されているのは、

月経痛の再現性ではなく、

月経痛っぽいと本人がラベルづけした刺激の再現性

にすぎない。

しかも、必要な刺激強度が体脂肪量や筋肉量によって大きく左右されるなら、それはもはや子宮痛モデルというより、通電条件に左右されるEMS感受性の個人差を見ているだけでもある。

つまりこの装置は、厳密には「月経痛再現装置」ではなく、

月経痛を想起させる一部の不快感を教育的に提示する比喩装置

と呼ぶのが限界に近い。

それを超えて「月経痛を再現した」と言い切るのは、モデルの過大表示である。

ナラティブの善意が、モデルの粗さを免罪してしまう

この問題が厄介なのは、装置の背後にある動機が善意だからだ。

「女性のつらさを知ってほしい」

「職場や学校で月経への理解を深めたい」

「男性にも痛みを想像してほしい」

こうした願い自体は理解できる。

だが、動機の善性は、モデルの正しさを保証しない。

ここで起きているのは、しばしば次のような流れだ。

  1. 月経痛は他者に共有しづらい
  2. だから疑似体験装置を作る
  3. 体験後に「理解が深まった」という反応が得られる
  4. その結果、「月経痛が再現できた」と言いたくなる

だが、3と4のあいだには本来、深い溝がある。

教育効果があることと、病態を正確に再現していることは別だ。

共感を喚起できたことと、女性身体の構造理解が進んだことも別だ。

ここを飛ばすと、ナラティブの熱量が、査読すべきはずの粗さを押し流してしまう。

私はこれを、ナラティブがモデル査読を免罪する構造だと見ている。

そもそも女性自身が、痛みを構造分解できていない

さらに難しいのは、月経痛を経験している女性自身も、その痛みを十分に分離して理解できていないことだ。

多くの人にとって月経痛は、

「お腹が痛い」

「腰も痛い」

「気持ち悪い」

「だるい」

「何もできない」

という、統合された苦痛経験として存在している。

それは当然だし、そこに嘘はない。

けれど、そのままでは、

  • どれが子宮収縮由来なのか
  • どれがプロスタグランジン由来なのか
  • どれが虚血感なのか
  • どれが腸管や直腸側への波及なのか
  • どれが自律神経症状なのか
  • どれが出血や睡眠障害や浮腫による全身不調なのか

が分離されていない。

この未分解な苦痛の束を、そのままEMSで「具現化」しようとしても、具現化されるのは一部の印象だけだ。

つまり、女性の痛みを尊重することと、その痛みを正確にモデル化することは別なのである。

倫理的にはどうなのか

──「啓発装置」の顔をした軽度拷問性

ここで避けて通れないのが倫理の問題だ。

この種の装置は、善意の啓発装置として語られやすい。

しかし、やっていることを素朴に言い直せば、他人の身体に意図的に痛みを与えているのである。

もちろん、医療や研究において痛み刺激そのものが直ちに否定されるわけではない。

だが、その場合には本来、

  • 何を検証するのか
  • 何が再現できて、何が再現できないのか
  • どの程度の負担を与えるのか
  • その負担に見合う利益があるのか
  • 同意は十分に自由か
  • 途中で即座に中止できるか

といった倫理的条件が厳密に問われるべきだ。

ところが「女性の痛みをわからせる」という大義名分が前に出ると、この査読が甘くなる。

その結果、装置は啓発ではなく、道徳化された痛みの実演に近づいていく。

私はここにかなり危ういものを感じる。

軽度拷問性を持つ装置であるという自覚なしに、「理解のためだから」と流通させるのは危険だ。

「わかった気にさせる装置」になっていないか

この装置が最も危ないのは、体験した人にわかった気を与えてしまうことだ。

腹部に電気刺激を受けて苦しんだ人が、

「なるほど、生理痛ってこんな感じなのか」

と思ってしまう。

しかし実際には、そこから落ちているものがあまりにも多い。

  • 出血による不快
  • 何時間も続く鈍い内臓痛
  • 放散痛
  • 吐き気や冷汗
  • 眠気と認知低下
  • 毎月繰り返される周期性
  • 日常生活や就労との衝突

そうしたものをごっそり落としたまま、「理解した」という達成感だけが残るなら、それは理解促進ではなく、むしろ誤学習である。

私が欲しいのは、ポスター化ではなく分解知性だ

私は、月経痛を社会が軽視してよいと言いたいのではない。

むしろ逆で、軽視されてきたからこそ、雑な擬似体験で済ませてはいけないと思っている。

必要なのは、「女のつらさを感じろ」というポスターではない。

必要なのは、女性身体の痛みを

  • 解剖
  • 生理
  • 神経
  • 内分泌
  • 自律神経
  • 全身症状

のレベルで分解し、何が起きているのかを厳密に説明できる知性である。

もし体験装置を使うなら、それは

月経痛そのものを再現する装置ではなく、

月経時の一部不快感を教育的比喩として提示する装置

と正直に名乗るべきだ。

そこをごまかしたまま、「女子の痛みをわかれ」と突っ走るなら、善意の顔をした歪みになる。

おわりに

月経痛体験装置が流行る社会には、確かに無理解への苛立ちがある。

だが、その苛立ちを処理するために、粗いモデルと軽度拷問性を抱えた装置を正義として流通させるのは危うい。

私は、女性の痛みを矮小化する社会にも反対だが、

女性の痛みをナラティブだけで処理し、雑なモデルで代表させることにも反対する。

月経痛を本当に理解したいなら、必要なのは「一回ビリビリしてみること」ではない。

女性身体を構造として学ぶことである。

そして大学に期待したいのは、共感のイベントを量産することではなく、

その構造を誤魔化さずに言語化する知性のほうだ。

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