宗教に女性の肉の悲鳴を聞かせる|HPO-L3から見たフェミニズムの敗北と救いの場所
ラッキー・ランタンタンです。
私はこのところ、イスラム、宗教共同体、アイデンティティ、女性の身体、フェミニズムの限界について考えていた。
そこで、ひとつの骨が見えた。
国家だけでは足りない。リベラルだけでも足りない。フェミニズムだけでも足りない。ジェンダー論だけでも足りない。
なぜなら、女性の身体の苦しみには、制度で減らせるものと、制度では救えないものがあるからだ。
女性の身体は、共同体の再生産を担わされる
共同体は、女性の腹なしには再生産できない。
家も、血族も、民族も、国家も、宗教共同体も、次世代を必要とする。そこには必ず、妊娠し、産み、育てる身体がある。
しかし、妊孕性は女性が自由に換金できる優位性ではない。
妊娠できるかどうか。いつ妊娠するか。流産するか。どの性別の子を産むか。五体満足の子が生まれるか。出産で自分が死なないか。子どもが死なないか。産後に身体が壊れないか。
これらは、女性本人が完全にはコントロールできない。
女性の身体は、共同体にとって価値を持つ。だが、その価値を女性本人が完全に所有しているわけではない。
ここに、女の肉の地獄がある。
左翼でも、リベラルでも、ジェンダーでも救いきれなかったもの
「左翼陣営にいれば女性は守られる」は嘘だった。
「リベラルなら女性の身体境界を尊重する」も嘘だった。
ジェンダーを叫んでも、女性は解放されなかった。
もちろん、国家は必要である。医療も必要である。法も必要である。避妊へのアクセス、緊急避妊薬、中絶医療、妊婦健診、産後ケア、DV避難、性暴力対応、育児支援、更年期医療。これらはすべて必要だ。
しかし、それでも残るものがある。
流産の悲しみ。不妊の絶望。産めなかった痛み。産まされた怒り。産んで壊れた身体。子を失った嘆き。若さが去っていく喪失。女として値踏みされた屈辱。
制度は、これらを完全には救えない。
国家は給付し、医療は治療し、法は裁く。しかし、嘆きそのものは統計にならない。
痛みには、救いがいる
人間は、死ににくくなるだけでは生きられない。
損傷を減らすことはできる。逃げ道を作ることもできる。医療につなぐこともできる。法で守ることもできる。
しかし、人の心はそれだけでは救われない。
痛みには、救いがいる。癒しがいる。意味にならない苦しみを、意味に急いで回収せず、それでも置いておける場所がいる。
そこで、宗教にしか担えないものがある。
宗教は本来、死、罪、後悔、喪失、不妊、子の死、老い、取り返しのつかなさを扱ってきた。国家でも、リベラルでも、フェミニズムでも抱えきれないものを、宗教は長く扱ってきた。
だから私は思う。
女性の肉の苦しみを、宗教にも飲ませるべきではないか。
宗教にも、女性への不公正を己の罪として受け入れさせる
ただし、これは単純な宗教回帰ではない。
「フェミニズムでは救われなかった。だから宗教へ帰ろう」という話ではない。
むしろ逆である。
宗教にも、女性の肉のにが湯を飲ませるべきなのだ。
宗教は、女性の嘆きを受け取るだけでは足りない。なぜなら、宗教自身もまた、女性の腹を共同体維持に組み込んできたからである。
産め。妻であれ。母であれ。貞潔であれ。忍耐せよ。家族を守れ。夫に従え。苦しみを徳にせよ。
宗教は、女性を守ってきた側面もある。修道院、慈善、病者介護、孤児救済、寡婦保護、聖母信心、女性聖人の系譜。それらは決して軽視できない。
しかし同時に、宗教は女性の苦しみを聖化してきた。
女の痛みを「母性」「徳」「貞潔」「忍耐」「家庭」へ回収することで、実際に女の肉へ落ちた不公正を見えにくくしてきた。
だから、宗教にも責任がある。
宗教は個人に罪の告白を求めてきた。ならば宗教共同体もまた、女性の身体に共同体維持の負荷を落としてきた歴史的責任を告白すべきである。
攻撃ではなく、悲鳴として訴える
宗教を攻撃すれば、宗教共同体は防衛に入る。
聖典を守り、教義を守り、伝統を守り、外部思想を拒む。特にイスラムのように、信仰、法、家族、性別分離、名誉、食、服装、共同体が密接に結びついた宗教では、外部からの批判は容易に「西洋化」「堕落」「信仰破壊」と見なされる。
だから、攻撃ではなく、悲鳴として訴える必要があるのかもしれない。
神よ、これは正しいのですか。
なぜ女の肉だけが、このように裂かれるのですか。
なぜ共同体は女の腹で続き、女の痛みを徳と呼ぶのですか。
なぜ母性は尊ばれ、母の損傷は忘れられるのですか。
これは政治的要求である前に、嘆きである。
ヨブ記的な抗議であり、詩篇的な叫びであり、産室から出てくる神学である。
聖典は書き換わらない。だが、共同体の応答は変わる
既存宗教の聖典は、簡単には書き換わらない。
しかし、変わりうるものはある。
解釈。牧会。典礼の重点。説教。教育。女性の証言の扱い。婚姻観。母性観。性暴力への対応。妊娠、出産、流産、不妊への祈り。寡婦、離婚女性、未婚女性への眼差し。男性側の責任の明文化。
聖典本文は変わらなくても、共同体の応答形式は変わりうる。
同じ聖典を読みながら、時代ごとに何を聞き取るかは変わってきた。ならば、女性の肉の悲鳴を聞き取らせることも可能なはずだ。
スマホとAIの時代には、宗教共同体の内側からも問いが増えていく。
これは神の命令ですか。それとも男たちの慣習ですか。
これは信仰ですか。それとも女の沈黙に依存した共同体維持ですか。
この問いは、すぐに制度を変えるものではない。しかし長期的には、宗教法、牧会、家族規範、共同体の言葉を揺らしていく。
国家に肉を守らせ、宗教に嘆きを背負わせる
国家には、女性の肉を守らせる必要がある。
医療には、女性の肉を正確に扱わせる必要がある。
法には、女性の肉への侵害を裁かせる必要がある。
しかし、それでも残る嘆きがある。
その嘆きを、宗教にも背負わせる必要がある。
ただし、宗教がその嘆きを「母性」や「徳」へ急いで回収することは許されない。
まず、肉の損傷として聞く。
痛かった。怖かった。失った。産めなかった。産んで壊れた。子を失った。望まない妊娠をした。中絶した。祈っても救われなかった。
これらを、そのまま祭壇の前に置かせる必要がある。
意味づけは、その後でいい。
HPO-L3からの提案
HPO-L3の視点から見れば、女性解放とは、女性の身体を完全に自由にすることではない。
女性の身体に不可避に発生するリスクを、共同体、医療、制度、男性、家族、国家へ再配分することである。
しかし、それだけでは足りない。
女性の身体に残る喪失、制御不能性、死、嘆きは、宗教にも引き受けさせなければならない。
宗教に戻るのではない。
宗教を無罪の安全地帯に置くのでもない。
宗教を、女性の肉の悲鳴の前に立たせる。
救いを語る者には、救いきれなかったものへの責任がある。
神殿の外で女が泣いているのではなく、神殿の中にその泣き声を響かせる。
国家だけでは足りない。リベラルだけでも足りない。フェミニズムだけでも足りない。
人は結局、宗教に戻っていく。
ならば宗教は、女性の肉のにが湯を飲まなければならない。

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