鏡はジェンダーを発明したのか|ボーヴォワール、女にされる身体、そして鏡の中から走り出したジェンダー平等

鏡はジェンダーを発明したのか|ボーヴォワール、女にされる身体、そして鏡の中から走り出したジェンダー平等

私は少しだけ、修道生活を経験している。

そこで知ったことがある。

鏡のない生活は、別に困らない。

修道院の中には、徹底して鏡がなかった。

朝、ベールを整えるために小さな手鏡を少し覗くことはある。
けれど、修道院という建物のどこにも、日常的に自分の姿を確認するための鏡はなかった。

次に姿鏡を見るのは、初請願で白いドレスを着せてもらう時だけだった。
そのためだけに、修練長室に鏡があった。

私は、そういう世界を知っている。

鏡がなくても、顔は洗える。
身体も洗える。
身支度もできる。
ベールも整えられる。

何かが変なら、誰かが指摘してくれる。
必要なら直してもらえる。

そのうちベールも、身体感覚で「この辺だ」と分かるようになる。

鏡がないと、外から見える自分に気を取られない。

すると、身体の内側の動きがよく分かるようになる。
冷え。
疲れ。
心の揺れ。
祈りの向き。
身体の奥で起きている微細な変化。

当時の私は、それと鏡のなさが関係しているとは思っていなかった。

鏡の効果を理解したのは、俗世に戻ってからだった。

俗世には、鏡が多すぎる。

鏡だけではない。
窓ガラス。
店の反射面。
電車の窓。
ショーウィンドウ。
スマホの黒い画面。

どこにでも、自分が映り込む。

そのたびに、私はビクッとした。

また自分。
ここにも自分。
あそこにも自分。

俗世とは、ここまで自分の姿が返ってくる世界だったのか。

これは疲れる。

こんな状態を、どうやって生きていけばいいのか。

私は本当に途方に暮れた。

鏡は「見られている私」を発見させる

この経験から、私は一つの仮説を持つようになった。

他者からの視線を発見するには、
まず「他者から見られている自分」を発見する必要があるのではないか。

そして、その発見の場が鏡なのではないか。

他者は、鏡がなくても私を見る。

親が見る。
共同体が見る。
男性が見る。
宗教が見る。
制度が見る。
社会が見る。

しかし、それだけでは「まなざし」は、まだ構造として見えにくい。

なんとなく恥ずかしい。
なんとなく直される。
なんとなく評価される。
なんとなく女らしくしなければならない。

それは身体感覚としては存在する。

けれど、鏡の中に自分が現れると、構造が変わる。

私は、私を見る。

そして同時に、見られる対象としての私を見る。

見る私。
見られる私。
見られる私を評価する私。

この三つが、鏡の前で分離する。

そこで初めて、問いが生まれる。

私は、誰の目で私を見ているのか。

この評価基準は、どこから来たのか。

この「女らしく見えるか」「美しいか」「若いか」「変ではないか」「ちゃんとしているか」という目は、本当に私の目なのか。

それとも、男の目なのか。
母の目なのか。
広告の目なのか。
社会の目なのか。
共同体の目なのか。

他者のまなざしは、外から刺さるだけではない。

鏡を通して、自分の目になる。

私は、そう提案したい。

ボーヴォワールが鏡のない中世の山奥の修道院に生まれていたら

ここで、私はひとつの思考実験をしたくなる。

もしボーヴォワールが、20世紀のパリではなく、
鏡が一枚もない中世の山奥の修道院に生まれていたら、
あの『第二の性』の解像度で「女にされる」という構造を発見することは、物理的に可能だっただろうか。

もちろん、中世にも女性役割はある。

修道院にも、性別秩序はある。
教会にも、女性観はある。
家にも、婚姻にも、身分にも、労働にも、出産にも、女性をめぐる制度はある。

だから、「女は作られる」という発見が、完全に不可能だったとは言わない。

しかし、あの解像度で、あの形で、「女にされる」という近代的構造を取り出せただろうか。

私は、かなり難しかったのではないかと思う。

ボーヴォワールは、単に思想的に鋭かっただけではない。

彼女は、都市にいた。
教育を受けていた。
写真がある時代にいた。
鏡がある時代にいた。
ファッションがある時代にいた。
男性知識人の視線の中にいた。
知的女性として自分を意識せざるを得ない場所にいた。

つまり彼女は、「見られる女」と「考える私」と「社会の中で女にされる私」が、
何度も反射し合う近代都市の中にいた。

その環境があったからこそ、
「女は生まれるのではない、女になるのだ」
という発見が、あの解像度で立ち上がった可能性がある。

女にされる。

これは、制度や教育や神話だけの話ではない。

鏡に映る自分。
写真に撮られる自分。
都市を歩く自分。
服を選ぶ自分。
男の視線の中にいる自分。
知的女性として、自分がどう見られるかを理解してしまう自分。

そうした視覚環境の中で、「女にされる私」は、毎日、本人へ返されていたのではないか。

鏡のない生活では、恥の感覚も変わる

修道生活の中で、私は自分の身体を恥だとは感じなかった。

恥ずかしさは、「私の身体が見られて恥ずかしい」という感覚ではなかった。

むしろそれは、
本来お見せしてはいけないものをお見せしてしまった、
共同体の静けさを乱してしまった、
相手をびっくりさせてしまった、
という申し訳なさに近かった。

自分の身体が恥なのではない。

見せるべきではないものを見せてしまったことが、
いやはや、お恥ずかしい、という感覚になる。

これは、鏡に映る自己像を監査する恥とは違う。

俗世の恥は、
「私はどう見えるか」
「私は変ではないか」
「私は美しくないのではないか」
という自己像への恥になりやすい。

しかし修道生活の恥は、
身体を共同体の秩序の中にどう置くか、
場の静けさを乱さないか、
他者に余計なものを見せてしまわないか、
という慎みの感覚に近い。

身体そのものは恥ではない。

身体をどう見せるか、どう覆うか、どう場に置くか。
その配置を誤った時に、恥が生まれる。

鏡はジェンダーを発明したのか

では、鏡はジェンダーを発明したのか。

ここは慎重に言う必要がある。

鏡がなかった時代にも、性別役割はある。
男女の制度差もある。
服装規範もある。
婚姻もある。
出産もある。
労働分担もある。
宗教的な女性観もある。

だから、鏡がジェンダーをゼロから作った、とは言えない。

しかし、鏡はジェンダーを「自分で監査するもの」に変えたのではないか。

前近代の女性は、共同体の中で整えられる。

母が直す。
乳母が直す。
侍女が整える。
家が求める。
宗教が枠を作る。
身分が服装を決める。
婚姻が身体の位置を決める。

そこでは、女らしさは外から組み込まれる。

しかし鏡が日常化すると、女らしさは本人へ返ってくる。

私は女らしく見えるか。
私は美しいか。
私は若いか。
私は太って見えるか。
私は変ではないか。
私は魅力的か。
私は社会に通用する身体像か。

こうして、ジェンダーは外部規範から、自己監査のループへ移動する。

他者に見られているだけではない。

私は、私を見張っている。

この自己監査の回路を、鏡は作ったのではないか。

その意味で、鏡はジェンダーを発明したのではなく、
ジェンダーを日次化した。

ジェンダーを、毎朝、毎晩、本人に返した。

ジェンダーを、自己像として住まわせた。

私はそう考えている。

女である苦しみと、「女の形」である苦しみ

ここで、もう一つ重要な線引きがある。

女であることに苦しんできたことと、
女の形であることに苦しんできたことは、同じではない。

女であることの苦しみには、HPO身体が関わる。

月経。
排卵。
出血。
PMS。
妊娠可能性。
避妊。
中絶。
出産。
産褥。
婦人科医療。
内分泌の揺れ。
性暴力リスク。

これは、鏡には映らない。

鏡に映るのは、女の形である。

顔。
髪。
肌。
眉。
唇。
胸。
腰。
服。
化粧。
姿勢。
若さ。
女らしさ。

鏡は、女の形を強烈に可視化する。

しかし、HPO身体そのものは映さない。

この二つは重なることもある。
しかし同じではない。

女らしく見えることに苦しんできた人がいる。
女の形を要求されて苦しんできた人がいる。
鏡の中の自分を監査し続けて疲れ果てた人がいる。

それは確かにある。

一方で、HPO身体として、出血し、妊娠可能性を持ち、避妊や中絶や出産や婦人科医療のリスクを背負ってきた身体もある。

それも確かにある。

この二つを、同じ「女性の苦しみ」として一つに丸めると、どちらも見えなくなる。

鏡に映る女と、
鏡に映らないHPO身体。

この二つを分けることが、Human HPOには必要だと思っている。

鏡の民主化と化粧の民主化

化粧そのものは、古代から存在する。

紅をさす。
白粉を塗る。
香をまとう。
髪を結う。
眉を描く。

そうした文化は、ずっとあった。

しかし、高度な化粧文化が広く一般化するには、鏡の民主化が必要だったのではないか。

昔の貴婦人たちは、自分で鏡を覗き込みながら眉の角度を何度も修正していたというより、
侍女や女房に「描かせて」いたのではないかと思う。

髪を整えさせる。
衣服を整えさせる。
眉を描かせる。
装身具を選ばせる。
おかしなところがあれば直してもらう。

そこでは、身体は共同体的に整えられている。

しかし鏡が一般化すると、事情が変わる。

自分で見る。
自分で欠点を見つける。
自分で直す。
自分でまた確認する。
自分で不合格を出す。

化粧は、他者に整えられるものから、自己監査と自己修正の技術へ変わっていく。

眉の角度。
肌の質感。
左右差。
唇の色。
目元の強さ。
輪郭。
若さ。
疲れ。
女らしさ。

これらを自分で見て、自分で直すには、日常的に自分の顔を確認できる鏡が必要である。

鏡の民主化とともに、化粧の民主化も降りてきたのではないか。

そしてそれは、同時に美容疲れとルッキズムの民主化でもあった。

整える責任が、本人へ移ったからである。

男女平等からジェンダー平等へ

近年、「男女平等」は、いつのまにか「ジェンダー平等」になった。

この変化は、単なる言い換えではない。

男女平等なら、まだ対象が見えやすい。

男と女。
賃金。
教育。
政治参加。
家事育児。
暴力被害。
医療。
社会制度。

もちろん、それでも難しい。
けれど、問いの足場はある。

しかし「ジェンダー平等」になると、対象が一気に広がる。

身体なのか。
自認なのか。
表現なのか。
役割なのか。
社会的扱いなのか。
制度上の分類なのか。
医療上の分類なのか。
安全管理上の分類なのか。
鏡に映る自己像なのか。

誰も定義しきれないまま、言葉だけが走っている。

そして今日も、ジェンダー平等は叫ばれる。

私はここで、少し皮肉な問いを置きたい。

ジェンダー平等とは、鏡の中から出奔した平等なのではないか。

鏡の中の私は、こう見られたい。
こう扱われたい。
こう承認されたい。
こう呼ばれたい。
こういう性別表現で社会に通用したい。

それらは、決して無意味な願いではない。

しかし、その願いがそのまま制度へ走り出した時、
平等の対象は、身体を持つ男女から、鏡に映る自己像へ移っていく。

男女平等は、鏡に映らない身体差も含む制度問題だった。

ジェンダー平等は、鏡に映る自己像、性別表現、社会的承認へ拡張された平等である。

その拡張には意味がある。

しかし同時に、鏡に映らないHPO身体の問題を、再び不可視化する危険がある。

月経。
排卵。
妊娠可能性。
避妊。
中絶。
出産。
産褥。
婦人科医療。
内分泌。

これらは、鏡には映らない。

しかし、女性身体の現実を支えているのは、そこだ。

ジェンダー平等が鏡の中から走り出す時、
出血する身体は、また置いていかれる。

私はそこを見ている。

私たちが「ジェンダー」と呼んでいるものの一部は何か

私たちが近年「ジェンダー」と呼んでいるものの一部は、
単に他者からまなざされた経験ではなく、
鏡に映る自分を、自分で監査し続けてきた声なのではないか。

男の視線。
社会の視線。
母の視線。
広告の視線。
学校の視線。
恋愛市場の視線。

それらは外から刺さるだけではない。

鏡を通して、自分の目になる。

その時、人は「見られている」のではなく、
「自分を見張っている」。

私は女らしく見えるか。
私は男らしく見えるか。
私は中性的に見えるか。
私は老けて見えるか。
私は太って見えるか。
私は性的に見られるか。
私は社会に通用する身体像か。
私は私らしく見えるか。

これは、純粋な内面ではない。

他者のまなざしが鏡を通って、自分の目になっている。

現代的なジェンダー自己認識は、この自己監査の回路なしには成立しなかったのではないか。

鏡に映る女と、鏡に映らない身体

私は、ジェンダー論を否定したいわけではない。

ボーヴォワールの発見を否定したいわけでもない。

むしろ、ボーヴォワールが発見した「女にされる」という構造は、今でも鋭い。

ただし、私はそこに鏡を差し込みたい。

女は作られる。

では、その作られた女は、何によって毎日本人へ返されていたのか。

鏡である。

都市である。
写真である。
ファッションである。
広告である。
男の視線である。
そして、それらを内蔵した自己視線である。

その視線の中から、近代的なジェンダー意識は立ち上がったのではないか。

そして今、ジェンダー平等という言葉は、鏡の中から出奔して、制度の中を走っている。

その走りを止めろと言いたいのではない。

ただ、その足元に何があるのかを見たい。

鏡に映る自己像なのか。
鏡に映らない身体なのか。

女の形なのか。
HPO身体なのか。

承認の問題なのか。
医療と安全の問題なのか。

ここを分けないまま、ジェンダー平等だけが走り続けると、
私たちはまた、身体を見失う。

鏡は、女を映す。

しかし、鏡はHPOを映さない。

だから私は、鏡に映る女と、鏡に映らない身体を分けて考えたい。

ジェンダー論には、鏡論が必要である。

そして女性身体論には、鏡の外へ出る視線が必要である。

Human HPOが見ようとしているのは、そこだ。

鏡の中から走り出した言葉に翻弄されながら、
それでも鏡に映らない身体を、もう一度、記録すること。それがこのサイトの仕事なのだ。

俗世の恥:
鏡に映る身体像への自己監査

修道生活の恥:
共同体秩序の中での身体配置の失敗

HPO的な身体:
恥ではなく、世話され、記録され、管理される現実の身体

鏡のある俗世では、恥は自己像に宿る。
鏡のない修道生活では、恥は共同体秩序と慎みに宿る。

ジェンダー論が「恥」を論じる時、
その恥が鏡に映る自己像への監査から生じているのか、
共同体の中で身体をどう配置するかという慎みから生じているのかを分ける必要がある。

前者は「私はどう見えるか」の恥であり、
後者は「見せるべきでないものを見せてしまった」の恥である。

この二つを混同すると、
修道生活や前近代的な身体規律は、単純な身体抑圧として誤読される。
一方で、現代の自己像監査の苦しみも、ただの社会規範として薄められてしまう。

この違いは、ジェンダー論が見落としてきた重要な差ではないか。この辺りを見つめていきたいところである。

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