近年、レインボーフラッグが「性的指向やジェンダーアイデンティティをめぐる差別への抵抗」を越えて、「あらゆる差別に反対する」という普遍的な善の象徴として使われる場面が増えている。
それ自体を辱めたいわけではない。
差別に反対することも、異なる運動が連帯することも、もちろん悪いことではない。
しかし、一つの旗があらゆる差別を引き受け、一つの言葉があらゆる身体、性的指向、ジェンダーアイデンティティ、疾患、政治的所属を背負い始めると、その言葉が本来何を指していたのか、だんだん分からなくなる。
フェミニズムにも、似たことが起きた。
女性が性を理由に受ける不利益や、女性の身体、労働、生殖、権利を扱っていた政治運動が、「あらゆる差別に反対する思想」として拡張されていく。
普遍的な正義を掲げるほど、思想は善良に見える。
しかし、何もかもを担当する思想は、もともと何を守るために存在していたのかを見失うことがある。
万能になった政治運動は、担当していた身体を失う。
私は、これを誰かの悪意だとは考えていない。
人間のL2、つまり自分たちが何者であり、何を守り、どちら側に立つ集団なのかという物語が、運動そのものを包み込んでいく作用なのだと思っている。
「私たちは誰も排除しない」
「私たちはあらゆる差別に反対する」
その物語が運動の善良な自己像になると、カテゴリーの境界を確認することさえ、排除や攻撃に見えるようになる。
しかし、配管を分けることは、誰かを追い出すことではない。
むしろ、一つの言葉の中に違うものを詰め込み、互いの姿を見えなくしてしまわないための作業である。
「性の多様性」では広すぎる
「性の多様性」という言葉は、便利である。
同時に、あまりにも広い。
この一語には、少なくとも次の異なるレイヤーが入りうる。
- 身体の性発達と性徴
- 生殖機能
- 内分泌や生殖器に関わる疾患
- 性的指向
- ジェンダーアイデンティティ
- ジェンダー表現
- 法律上の性別
- 社会的役割
- 政治的連帯や所属
これらは互いに影響することがある。
交差することもある。
しかし、同じものではない。
DSDのある人の中には、ノンバイナリーの人もいる。
DSDのある人の中には、トランスジェンダーの人もいる。
その場合は、
DSDかつノンバイナリー
DSDかつトランスジェンダー
という交差がある。
一方で、
DSDの女性
DSDの男性
もいる。
ここをすべて同じ形式で「DSDかつ女性」「DSDかつ男性」と並べてしまうと、女性や男性であることまで、ノンバイナリーやトランスジェンダーと同じ種類の追加アイデンティティであるかのように配置されてしまう。
しかし、DSDの女性は、DSDという身体状態を持つ女性である。
DSDの男性は、DSDという身体状態を持つ男性である。
その人が望んでいないのに、
あなたの身体は典型的ではない
ならば女性でも男性でもないのではないか
ジェンダーアイデンティティにも問題があるのではないか
第三の性なのではないか
と問い直す必要はない。
DSDという身体の複雑性と、ジェンダーアイデンティティの複雑性は、接触することはあっても別の配管である。
「かつ」という交差を、「だから」という因果や所属へ変えてはならない。
DSDを「性徴の多様性」のレイヤーで見る
そこで必要になるのが、性徴の多様性という言葉である。
性徴とは、身体の性に関係して形成される特徴を指す。
染色体、性腺、内外性器、ホルモンの産生や受容、思春期以降に現れる身体的特徴、生殖機能などは、互いに関連しながらも、必ずしもすべてが同じ形に揃うわけではない。
DSDは、こうした性発達に関する多様な身体状態を含む。
ただし、私は「性徴の多様性」という言葉で、DSDを一つの新しいアイデンティティへ変えたいわけではない。
逆である。
身体を身体として観測するために、ジェンダーアイデンティティや性的指向や政治的所属から、いったん分けて置きたい。
性徴の多様性は、性的指向の多様性ではない。
性徴の多様性は、ジェンダーアイデンティティの多様性でもない。
その人がレインボーと連帯するかどうかも、性徴だけから自動的に決まるものではない。
レインボーと連帯したいDSD当事者は、連帯できる。
インターセックスという言葉で自分を理解する人は、その言葉を使える。
DSDかつトランスジェンダー、DSDかつノンバイナリーである人もいる。
一方で、自分を女性または男性と認識し、DSDを身体疾患や身体状態としてのみ扱ってほしい人もいる。
どの旗にも所属したくない人もいる。
性徴の多様性というレイヤーは、そのどれも自動的には決めない。
身体がどのように発達し、現在どのような医療や生活上の必要を持つのかを見る。
それだけである。
Human HPOでいう「HPO発達」
Human HPOでは、この性徴の多様性を、HPO発達の多様性として観測している。
ここでいうHPO発達は、一般医学で使われるHPO軸という用語を、そのまま拡大したものではない。
Human HPO独自の観測語である。
視床下部、下垂体、性腺を中心とする内分泌系だけでなく、ホルモンの産生、受容、標的となる器官、性徴、生殖機能、発達時期、その身体に生じる疾患や医療上の必要を、複数のレイヤーとして観測する。
つまりHuman HPOでは、
人間の身体は、単一の「性」という札によって完成しているのではなく、複数の発達経路と身体要素が重なって構成されている
と見る。
HPOという名前は、すべての性発達を一つのホルモン軸だけで説明するという意味ではない。
身体を、アイデンティティや社会的物語だけで説明しないための起点である。
一般向けの言葉に直せば、HPO発達の多様性とは、性徴の多様性である。
なぜHuman HPOはDSDを取りこぼさないのか
Human HPOは、DSDをLGBTQIA+の「I」に入れることで取りこぼさないのではない。
性発達、性徴、ホルモン、受容機構、性腺、内外性器、生殖機能を、最初から別々の身体レイヤーとして観測するため、そこにある身体を取りこぼさない。
レインボーを経由しなくても、DSDは消えない。
政治的アイデンティティを与えなくても、身体は観測できる。
女性や男性という言葉を奪わなくても、その人の身体に必要な医療を語ることができる。
逆に、トランスジェンダーやノンバイナリーとの交差を持つ人については、その交差を別のレイヤーとして保持できる。
Human HPOは、誰かを一つの正しいカテゴリーへ収納するためのモデルではない。
身体の状態
性徴
生殖機能
疾患
本人の性別認識
性的指向
社会制度
政治的所属
を、同じ人間の中に同時に存在させながら、同じものにはしないためのモデルである。
だからDSDを「性の多様性」という大きな物語へ溶かさなくても、その身体の複雑性を保持できる。
なぜ私は「女性」だけで身体を語らなくなったのか
Human HPOという名前を作った背景には、「女性」という言葉をめぐる混線がある。
女性という言葉が、身体、社会的呼称、ジェンダーアイデンティティ、法的分類、政治的所属をすべて背負うようになると、月経、妊娠、避妊、出産、流産、不妊、閉経、婦人科疾患などを、どの身体に起きる問題として扱うのかが曖昧になる。
私は、人が自分をどう呼ぶかを裁定したかったわけではない。
トランスジェンダーの存在を否定するために、HPO発達という言葉を作ったわけでもない。
必要だったのは、
アイデンティティの定義争いとは別に、リプロダクティブ・ヘルスを必要とする身体を指し示す言葉
だった。
誰を女性と呼ぶべきかという論争を経由せず、
どのような発達経路を持つ身体に、どのような生殖機能、疾患、医療上の必要が生じるのか
を記述する。
そのための身体言語として、Human HPOとHPO発達という言葉を作った。
これは人から女性という名前を奪うためではない。
女性の身体に起きる問題を、女性という言葉の意味が政治的に揺れたときにも消失させないためである。
同時に、DSDの女性や男性、トランスジェンダーやノンバイナリーとの交差を持つ人の身体も、同じ身体地図の上で観測できる。
L2は、なぜすべてを一つの物語へ入れたがるのか
人間は、分類だけで生きているわけではない。
自分はどちら側に立つのか。
自分たちは何を守る集団なのか。
自分の行動は善であるのか。
そうした物語によって、自分と共同体を維持している。
Human HPOでは、この心的・社会的な物語の層をL2として観測する。
L2には、人間の心や共同体を守る重要な働きがある。
だからL2そのものを破壊すればよいわけではない。
しかしL2が政治運動を覆うと、
私たちはすべての差別へ反対する
私たちは誰も排除しない
この旗はあらゆる善を表している
という物語が、運動の目的や対象よりも強くなることがある。
すると、
この身体状態とジェンダーアイデンティティは別です
この疾患を、その政治カテゴリーへ自動的に入れないでください
この旗には所属しません
という訂正が、単なる配管修正ではなく、運動や当事者への攻撃として受け取られる。
分けることが、差別に見える。
境界を確認することが、排除に見える。
しかし、それはL2の物語の中から見た景色である。
L3から見れば、行っているのはもっと単純な作業だ。
異なるものは、異なるものとして置く。
交差するところには橋を架ける。
しかし、橋があるからといって二つの土地を同じ土地にはしない。
それだけである。
連帯には、同一化を必要としない
性的指向、ジェンダーアイデンティティ、性徴、身体疾患、女性の権利、リプロダクティブ・ヘルスは、必要な地点で連帯できる。
しかし、連帯するために同じものになる必要はない。
同じ旗に入ることだけが、尊重ではない。
旗に入らないことだけが、敵対でもない。
本当の包摂には、
- 入る自由
- 入らない自由
- 複数の領域と交差する自由
- 身体を身体としてのみ語る自由
- アイデンティティを強く持つ自由
- アイデンティティという形式を採用しない自由
が必要である。
「性の多様性」という一語で何もかもを語るのではなく、
- 性的指向の多様性
- ジェンダーアイデンティティの多様性
- 性徴の多様性
- 生殖機能や内分泌の多様な状態
- 政治的連帯
を分けて見る。
そして必要なところだけを接続する。
それが、レインボーを辱めず、DSDを辱めず、レインボーと連帯するDSD当事者も、そこから距離を置くDSD当事者も辱めない方法だと、私は考えている。
身体を消さないためのサイト名
私は、人間を一つのアイデンティティや美しい物語にまとめたいのではない。
身体、物語、制度、性的指向、ジェンダー、信仰、倫理を分けたまま観測したい。
混ざったものを裁きたいのではない。
流れが詰まっているから、管を分けたい。
Human HPOという名前は、そのためにつけた。
人間の身体を、身体として残す。
女性という言葉が揺れても、リプロを必要とする身体を消さない。
DSDを政治的な旗へ入れなくても、性徴の多様性として取りこぼさない。
本人が望むアイデンティティや連帯は、別のレイヤーとして尊重する。
一つの概念へ何もかもを詰め込まず、異なるものを異なるまま置いておく。
Human HPOは、人間を分断するための分類ではない。
混ぜることで消えてしまう人間の複雑性を、分けることで保存するための配管図である。

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