日本のフェミニズムはなぜ「権利」より「正しい女」を作ろうとするのか

日本のフェミニズムは、なぜ「権利」より「正しい女」を作ろうとするのか

ピル、緊急避妊薬、部落フェミニズムをつなぐ「正しさへの応答」

私は長いあいだ、日本のフェミニズムには妙な癖があると感じてきた。

女性の権利を語っているはずなのに、実際に女が使える具体的な手段を増やそうとすると、急に話が道徳へ曲がる。

ピルを使いたい女には、

「男に都合のいい女になるな」
「いつでもどこでも性行為ができる、準備の整った女になるな」
「男にコンドームをつけてと言えない関係のまま、女だけが避妊を担うのはおかしい」

と言う。

緊急避妊薬を薬局で買えるようにしろと言えば、

「男の無責任を助ける」
「女性だけに避妊責任を負わせる」
「男に利用される女を増やす」

と言う。

出生前診断を受けたい女には、

「優生思想を内面化している」
「命を選別している」

と迫る。

その一方で、部落女性の証言や、有色人種女性が築いたリプロダクティブ・ジャスティスに出会うと、

「私たちは考え直すことができた」
「これまでのフェミニズムを更新できた」
「より交差的な視点を得た」

と語る。

しかし私は、そこでいつも同じ疑問に戻る。

それで、誰の何の権利が増えたのか。

薬は買えるようになったのか。
相談先はできたのか。
産む場合も産まない場合も支援されるようになったのか。
差別を受ける側ではなく、差別する制度へ責任を返したのか。

1.「私たちは選ばない」は、なぜ他人の選択肢まで塞ぐのか

自分がピルを選ばないことは自由である。

副作用が怖い。
毎日飲みたくない。
コンドームを使いたい。
別の方法を選びたい。

どれも本人の自由だ。

しかし、

私たちは選ばない

が、

女は選ぶべきではない

へ変わった瞬間、それは権利論ではなく道徳になる。

ピルを飲む女が、男に都合よく使われる可能性がある。
避妊責任を一人で負わされる可能性がある。
男がコンドームを使わなくなる可能性がある。

それらは現実に起こりうる。

けれど、それはピルへのアクセスを塞ぐ理由にはならない。

必要なのは、

  • コンドームを要求できる支援
  • 性暴力や強要から逃げる支援
  • 医療情報
  • 副作用への対応
  • 選べる複数の避妊手段

である。

それらを増やしたうえで、本人が選べばよい。

ところが日本のフェミニズムの一部は、技術を選択肢として渡すより先に、

その選択は、女性解放の正しい方向へ貢献するか

を審査した。

ピルは単なる避妊薬ではなく、政治的忠誠試験になった。

2.避妊は、精神修養ではない

男はコンドーム。
女はペッサリー。

双方が不便を引き受け、避妊の手間を分かち合うことで、対等な関係を作る。

そうした考え方を選ぶ人がいてもよい。

だが、それを「より正しい避妊」として一般化すると、話がおかしくなる。

避妊の目的は、妊娠を避けることである。

男女が同じだけ苦労することでも、精神的高まりを得ることでもない。

負担をどう分けるかは、関係ごとの課題である。

本人が確実に使える方法へアクセスできるかは、権利の問題である。

この二つは分けなければならない。

不便を平等に分かち合うことが、対等な愛の証明です。

と言われても、

避妊の精神性など押しつけてもらわなくて結構です。

である。

避妊具は、魂の成熟度を測る装置ではない。

3.保守派とフェミニストは、性道徳のコインの表裏になる

保守派の政治家は言う。

避妊薬を安易に解禁すれば、女性の性道徳が乱れる。

規律型フェミニストは言う。

女が薬で避妊すれば、男の都合のいい性の道具になる。

方向は逆に見える。

だが両者は、同じ問いを立てている。

この女の性は正しいか。

保守派が求めるのは、貞淑で慎み深い女。

規律型フェミニズムが求めるのは、男性支配を再生産せず、男へ交渉でき、政治的に正しい性関係を営む女。

理想像は違う。

しかし、どちらも女本人の前に性道徳の審査台を置く。

古い規範を壊した跡地へ、別の「正しい女」を建てただけである。

私はこれを、新・女性のあり方2.0だと思っている。

4.権利は、賢い女への褒美ではない

緊急避妊薬は、時間依存の薬である。

先に飲む。
妊娠リスクを下げる。
反省会はその後でよい。

相手との関係を見直すことも、避妊方法を変えることも、性暴力や強要がなかったかを考えることも、後からできる。

しかし、服用できる時間は待ってくれない。

それでも一部のフェミニズムは、薬の前へ人格審査を置く。

  • 男にコンドームを言えない女
  • 同じ失敗を繰り返す女
  • 男に利用されているように見える女
  • その関係を本人が好んでいる女
  • 周囲から愚かに見える女

こうした女にも、同じように薬が使えると言い切れない。

ここに、権利論の弱さが出る。

本当の権利論は、

愚かかどうかは、権利の前には関係ない。

と言わなければならない。

性道徳が乱れていても使える。
男へ交渉できなくても使える。
関係から抜けられなくても使える。
同じ失敗をしても使える。
フェミニストでなくても使える。

権利は、正しく生きた人に与える表彰状ではない。

正しく生きられない時にも作動する外部装置である。

5.rurikoと多摩湖が異質だった理由

2014年前後、rurikoと私は、緊急避妊薬の市販薬化を求めていた。

私たちが言っていたことは単純だった。

必要な人が、必要な時に、安く、早く、説教なしで使えるようにしろ。

ところが、返ってきたのは、

「アンチフェミ」
「男に利する女」
「あんなのフェミニストじゃない」
「肉便器になる権利、乙」

といった言葉だった。

今振り返ると、私たちが異質だった理由は明確である。

私たちは、女を正しくする運動をしていなかった。

正しくなくても困らない制度を作れ。

と言っていた。

男に利用されているように見えるなら、なおさら妊娠回避手段が要る。

コンドームを言えないなら、なおさら本人が使える手段が要る。

同じ失敗を繰り返すなら、毎回使える制度が要る。

権利へアクセスできる条件に、思想的成熟を置かなかった。

それは日本のフェミニズム文化から見ると、あまりにも裸の権利論だった。

6.「正しさへの応答」という政治文法

この構造は、ピルや緊急避妊薬だけではない。

『部落フェミニズム』には、部落女性の貧困、労働、婚姻差別、生殖不安、相談先の欠如が記録されている。

ある女性は、子どもを産めば「部落の子」を作ってしまうのではないかと恐れた。

ここから必要なのは、

  • 正確な情報
  • 相談支援
  • 婚姻差別への対策
  • 産む場合も産まない場合も支える制度
  • 子どもが安全に育つ環境

である。

ところが話は、

「命を選別してはならない」
「優生思想に反対しなければならない」
「天皇制や家族国家を問い直さなければならない」

という、より大きな正しさへ接続される。

それらの議論が無意味だと言っているのではない。

問題は、部落女性が最初に出した請求書が消えることである。

「私は産んでよいのか」という具体的な孤立が、
「生命をどう捉えるべきか」という思想課題へ変換される。

7.部落への応答ではなく、正しさへの応答

『部落フェミニズムに呼応する』のような応答型の言説では、

「私たちは考え直した」
「自分たちの不十分さに気づいた」
「より交差的な視点を得た」

という語りが中心になる。

しかし、そこで更新されているのは誰か。

部落女性の生活条件ではない。

応答した側の思想である。

本来、部落女性への応答なら、

何を無視してきたのか。
誰が責任を負うのか。
何を謝罪するのか。
どんな制度を作るのか。

が問われるはずである。

だが実際には、

私たちは学びました。
私たちは更新されました。

で終わる。

部落女性の証言が、聞き手をより正しい人間にする教材へ変わる。

私はこれを、部落への応答ではなく、正しさへの応答と呼びたい。

8.これは新左翼的な「総括」の残響ではないか

ここで、一つの仮説が立つ。

日本のフェミニズムに見られる「正しさへの応答」は、アカデミアの概念更新文化だけではなく、新左翼由来の政治文法を引き継いでいるのではないか。

新左翼的な運動文化では、

問題提起を受ける
自己批判する
総括する
路線を修正する
より正しい位置へ移動する

ことが重視された。

ここで中心になるのは、被害を受けた人への償いより、運動主体の路線修正である。

謝罪は、

私はあなたに負債を負った。

と、相手を中心に置く。

総括は、

私は誤りを認識し、より正しい主体になった。

と、自分たちを中心に置く。

だから、

応答したこと自体によって、過去の誤りが不問にされる。

という現象が起こる。

間違いを認めなくてもよい。
誰が何を遅らせたかを検証しなくてもよい。
謝罪や制度変更がなくてもよい。

応答し、概念を更新し、正しい路線へ戻れば、政治的債務が消える。

9.ピルから部落フェミニズムまで、一本の配管でつながる

こうして見ると、ばらばらに見えたものがつながる。

  • ピルを選ぶ女は、男に都合のいい女ではないか
  • 緊急避妊薬は、男の無責任を助けないか
  • 出生前診断は、優生思想ではないか
  • 部落女性の証言を受け、私たちはどう正しく更新されるか
  • リプロダクティブ・ジャスティスを、日本の正しい反差別思想へどう接続するか

すべて、

個人へ選択肢を渡す前に、その選択が正しい歴史方向へ貢献するかを審査する

という配管を通っている。

ここでは、権利より路線が上位にある。

本人の選択より、思想体系への貢献が優先される。

10.「リベラル」と呼ばれているものは、本当に自由主義なのか

本来の自由主義的な権利論なら、こう言えるはずである。

私はその選択に反対だ。
私自身は選ばない。
それでも、あなたの選択肢は守る。

しかし日本で「リベラル」と呼ばれる一部の空間では、

その選択は差別的ではないか。
支配構造を再生産しないか。
正しい解放へ貢献するか。

が先に来る。

これは、個人の自由を守る思想というより、正しい歴史方向へ主体を配置する政治である。

だから、正しくない選択をする自由を守れない。

運動へ貢献しない自由を守れない。

フェミニズムを裏切るように見える女の権利を守れない。

ここには、

新左翼が自分を「リベラル」と呼んでいるだけではないか

という、かなり大きな問いがある。

もちろん、日本の左翼・リベラル・フェミニズム全体を一括りにすることはできない。

これは一つの歴史仮説である。

しかし、ピル、緊急避妊薬、出生前診断、部落フェミニズム、リプロダクティブ・ジャスティスを横断すると、同じ政治文法が何度も現れる。

11.フェミニズムは信仰ではなく、社会運動である

フェミニズムの仕事は、正しい女を作ることではない。

女を賢くすることでも、政治的に純化することでも、理想的な性関係へ導くことでもない。

仕事は、

  • 薬を使えるようにする
  • 医療へアクセスできるようにする
  • 産む場合も産まない場合も支える
  • 暴力から逃げられるようにする
  • 働けるようにする
  • 働けなくても生きられるようにする
  • 子どもを安全に育てられるようにする
  • 差別する側へ責任を負わせる

ことである。

社会運動の成果は、

みんなが正しくなった

ではなく、

正しくなくても、権利が使えるようになった

で測られるべきだ。

愚かでもよい。
迷っていてもよい。
同じ失敗をしてもよい。
男に利用されているように見えてもよい。
フェミニストでなくてもよい。

それでも、必要な薬は使える。

それでも、産むか産まないかを選べる。

それでも、社会は本人の身体と生活を守る。

これが権利である。

結び

日本のフェミニズムは、長く「女を解放する正しい思想」であろうとしてきた。

しかしその過程で、

正しい女を作ること
正しい路線へ応答すること
自分たちの思想体系を更新すること

が、具体的な権利保障より前へ出ることがあった。

必要なのは、さらに正しい女の像を作ることではない。

性道徳のコインを裏返すことでもない。

コインそのものを捨てることである。

私はその選択をしない。
あなたは選んでもよい。

私はその生き方を理解できない。
それでも、あなたの権利は使える。

私はあなたを愚かだと思う。
それでも、薬は棚に置かれる。

フェミニズムは信仰ではない。

新しい道徳でもない。

社会運動である。

正しい女を作る前に、正しく生きられない女にも使える制度を作れ。

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