日本フェミニズムの権利論はどこでねじれたのか|新左翼の解放と部落解放運動の改善

日本のフェミニズムは、なぜ「権利」を語りながら正しい女を作ろうとするのか

新左翼の「解放」、部落解放運動の「改善」、そして今日使える権利

日本のフェミニズムは、権利を語る。

女性の自己決定権。

身体の自由。

性と生殖に関する権利。

差別されない権利。

暴力を受けない権利。

ところが、具体的な選択肢を女の手元へ渡そうとすると、話が急に道徳へ曲がることがある。

ピルを使いたい女には、

「男に都合のいい女になるな」

「いつでも性行為ができる、準備された女になるな」

「男にコンドームをつけてと言えないまま、女だけが薬で避妊するのはおかしい」

と言う。

緊急避妊薬を薬局で買えるようにしろと言えば、

「男の無責任を助ける」

「女性だけに避妊責任を負わせる」

「男性に利用される女を増やす」

と言う。

出生前診断を受けたい女には、

「優生思想を内面化している」

「命を選別している」

と迫る。

なぜ、女性の権利を語る運動が、本人の選択を保障するより先に、

その選択をする女は、正しい女か。

を問うのか。

この問いをたどると、日本のウーマンリブがどのような政治文化のなかから生まれたのか、という問題へ行き着く。

日本のウーマンリブは、1960年代末から1970年代にかけての反戦運動、学生運動、新左翼運動と連続しながら、その男性中心性へ反乱する形で立ち上がった。

男中心の運動は批判した。

しかし、正しい主体、自己批判、総括、体制への回収を警戒する政治文法まで捨てたのか。

私は、そこに疑問を持っている。

ただし、本稿で扱う「新左翼」は一枚岩ではない。

新左翼諸派、全共闘、反戦運動、市民運動、青年労働者運動が、すべて同一の革命観や主体論を共有していたわけではない。ここで見るのは、それらの一部に繰り返し現れた政治文法の傾向である。

そして本稿は、現代フェミニズムが新左翼から一直線に思想を継承したと証明するものでもない。

まず問いたいのは、異なる時代と領域に、よく似た政治形式が反復していないか、ということである。

1.新左翼が求めたのは「権利」か、それとも「解放」か

新左翼が権利を語らなかった、と単純に言うことはできない。

彼らも自由、解放、反抑圧、人間性の回復を語った。

だが、そこで語られる権利は、自由主義的な個人権とは異なる重心を持っていたのではないか。

自由主義的な権利は、たとえば次のように働く。

  • 国家にも運動にも侵されない個人の領域
  • 他人が反対しても本人が行使できる選択肢
  • 思想的に未熟でも利用できる制度
  • 現在の国家へ請求できる具体的保障
  • 運動の理念へ貢献しなくても守られる自由

一方、革命運動における権利は、しばしば集合的な解放として構想される。

  • 労働者階級の解放
  • 被抑圧人民の解放
  • 帝国主義からの解放
  • 資本主義的疎外からの解放
  • 支配された者が革命主体として立ち上がること

ここでは、個人の自由は、社会関係全体の変革によって回復される。

現在の国家、法、議会、権利体系そのものが、階級支配や帝国主義の産物として疑われる。

そのため、

今、この個人に何を使わせるか。

より、

この個人を生み出している社会関係を、どう全面的に変えるか。

が中心になる。

これは大きな射程を持つ。

しかし、その大きさは、現在の身体を取りこぼすことがある。

革命は未来を主語にする。

権利は、今日の身体を主語にする。

妊娠可能性は革命を待たない。

緊急避妊薬の服用期限は、路線の確定を待たない。

暴力を受けている女は、資本主義が終わるまで同居を続けられない。

ここに、革命的解放と、現在使える個人の権利との時間差がある。

2.革命は、制度だけでなく主体を変えようとした

新左翼にとって革命は、単なる政権交代や法律改正ではなかった。

日常生活を変える。

家族関係を変える。

性関係を変える。

自分のなかにあるブルジョア性や支配性を克服する。

支配を内面化した自己を作り替える。

革命とは、社会を変えると同時に、自分自身を革命にふさわしい主体へ変えることでもあった。

ここから、

  • 自己批判
  • 総括
  • 路線修正
  • 裏切り
  • 回収
  • 正しい主体
  • 誤った意識

という政治語彙が生まれる。

権利の政治なら、

あなたが未熟でも、制度は使える。

と言える。

主体形成の政治では、

あなた自身も、支配構造を再生産しない人間へ変わらなければならない。

となる。

この政治文法がウーマンリブへ入ると、

  • 男に従属しない女
  • 性差別を内面化しない女
  • 家父長制を再生産しない女
  • 自分の身体を自分で取り戻した女

という、強力な主体像を生む。

それは、男中心の新左翼運動のなかで、女が炊事、雑務、ケア、性の提供を担わされたことへの反乱として必要だった。

問題は、主体形成そのものではない。

問題は、具体的な権利を行使する女が、その主体像へ適合しているかどうかまで審査されることである。

3.リブにも権利要求はあった

ここで、自分から歴史的反証を入れておきたい。

ウーマンリブが、ピルや中絶の権利をまったく要求しなかったわけではない。

女性の身体を国家や男性支配から取り戻すため、避妊や中絶を重要な争点としてきた運動もあった。

したがって問題は、

リブには権利要求がなかった。

ということではない。

問題は、権利要求が存在する一方で、その権利を使う女の選択が、

女性解放の正しい方向へ適合しているか。

と同時に審査される、二重構造があったことではないか。

ピルを使える制度を求めながら、

ピルを使う女は、男に都合よく準備された女ではないか。

と問う。

中絶の自由を求めながら、

その中絶は優生思想に基づく選別ではないか。

と問う。

緊急避妊薬へのアクセスを語りながら、

それは男にコンドームを要求できない関係を温存しないか。

と問う。

権利は認める。

しかし、その権利を行使する理由と生き方は、運動によって審査される。

ここで権利は、無条件に使える防具ではなく、解放主体としての適格性と結びつく。

4.薬理的手段が、政治的主体判定へ変換される

ピルは、妊娠可能性を下げる薬である。

緊急避妊薬は、避妊に失敗した後、妊娠可能性を下げるための薬である。

本来問われるべきなのは、

  • 安全に使えるか
  • 必要な時間内に入手できるか
  • 価格は妥当か
  • 本人が選べるか
  • 他の避妊方法も選択可能か

である。

ところが、薬に政治的な意味が過剰に貼り付けられると、

  • 男性支配を再生産するか
  • 女を解放するか
  • 正しい性関係を作るか
  • 男の無責任を助けるか
  • 運動の方向へ貢献するか

を測る象徴になる。

薬理的手段が、政治的主体判定へ変換される。

ピルは、女の政治的成熟を測る試験紙になる。

私はピルを選ばない。

それは自由である。

しかし、

私たちは選ばない。

が、

女は選ぶべきではない。

へ変わった瞬間、それは権利論ではない。

その選択をする女が、解放にふさわしいかどうかを判定する路線審査である。

5.部落解放運動は、革命運動と同じだったのか

ここで、同じ「解放」という語を使う部落解放運動との違いが見えてくる。

部落運動は、部落「解放」運動だった。

しかし同時に、

  • 環境改善運動
  • 労働運動
  • 教育運動
  • 識字運動
  • 身分差別の廃止運動
  • 地域福祉運動

でもあった。

階級問題として見れば、低賃金労働へ押し込められ、十分な教育や識字の機会を奪われた労働者階級の問題でもあった。

部落の人々は、

  • 学校へ行けない
  • 字が読めない
  • 公的書類を扱えない
  • 低賃金で働かされる
  • 劣悪な住環境へ放置される
  • 就職や結婚で排除される

という、非常に具体的な不利益を抱えていた。

だから要求も具体的だった。

  • 学校へ行けるようにしろ
  • 識字学級を作れ
  • 住宅を改善しろ
  • 道路を整備しろ
  • 保育所を作れ
  • 奨学金を出せ
  • 就職差別をやめろ
  • 行政に予算を付けさせろ

部落解放運動は、国家を批判しながら、国家へ具体的に請求した。

国家を倒す前に、道路を舗装させた。

革命後の正しい社会を待たず、今いる子どもを学校へ行かせた。

理論的には「解放」でも、重要な工法の一つは「改善」だった。

6.部落解放運動も、主体を形成した

ただし、部落解放運動を環境改善だけへ閉じるのも正確ではない。

部落解放運動にも、

  • 差別の構造を理解すること
  • 被差別者としての自己認識
  • 誇りを取り戻すこと
  • 仲間とつながること
  • 糾弾する主体になること
  • 自分の経験を語ること

という主体形成があった。

識字学級も、単に行政文書を読めるようにする場ではなかった。

字が読めないことへの恥をほどく。

自分の名前を書く。

自分の人生を書く。

言えなかったことを、文字にして人前で読む。

そこには、奪われた自己表現を取り戻す主体形成があった。

では、新左翼型の主体形成との違いは何か。

部落解放運動は、主体形成をしなかったのではない。

主体形成を、生活条件と制度を変える力へ接続した。

文字を学んだ人は、より正しい人間になるためだけに書いたのではない。

要求書を書く。

行政文書を読む。

学校と交渉する。

会議で発言する。

運動の記録を残す。

次世代へ知識を渡す。

主体形成は、環境改造と制度変更へ流された。

主体を作ることが自己目的化せず、主体が社会へ請求するための能力へ変換された。

この違いは大きい。

7.私が育った部落のムラでは、何が語られていたか

私は、近畿の部落のムラで育った。

自分が部落の子だと知ったのは、ムラの子どもだけが集められ、毎週金曜日に必ず出席させられる差別学習会だった。

なぜムラの子だけが集められるのか。

そこで初めて、

私は部落の子なのか。

と知った。

その学習会では、

  • 日本帝国の植民地支配
  • 軍部の悪行
  • 戦争責任
  • 部落差別の歴史
  • 貧困や識字問題が構造的に作られたこと
  • 差別される側へ責任を押しつけてはならないこと

を習った。

しかし、天皇制を廃止せよ、というところまで飛んでいった記憶はない。

もちろん、私の記憶がすべてではない。

教材や指導者によっては、天皇制批判が含まれていた可能性もある。

私が子どもで理解できなかった可能性もある。

学習会の記録を確認すれば、別の姿が見えるかもしれない。

それでも、私自身の生活記憶としては、

部落差別学習の中心は、天皇制解体ではなく、差別構造と生活改善だった。

と感じている。

もし天皇制批判があったとしても、私の記憶に残るほど中心的ではなかった。

私は天皇制解体論を、大人になってから初めて知った。

ムラの人間が日常的に話していたのは、

  • 誰が学校へ行った
  • 誰が先生になった
  • どこへ就職した
  • 道路がどうなった
  • 保育所がどうなった
  • 選挙で誰を通すか
  • 行政から何を取るか

という話だった。

権力一般の抽象論より、生活条件の話だった。

8.左翼教師と都市学生運動は、同じ思想空間だったのか

ここには、今後さらに資料を集めたい問題がある。

近畿の部落地域には、左翼系の教師がいた。

同和教育、反戦教育、在日朝鮮人差別、植民地支配、部落差別を熱心に教える教師たちである。

しかし、その教師たちの思想と、都市部の全共闘や新左翼学生の思想が、どこまで同じだったのか。

本当に同じネットワークだったのか。

交流はあったのか。

教師たちは学生運動を経験した後に地域へ入ったのか。

それとも、日本教職員組合や地域の教育運動を通じた、別の左翼回路だったのか。

新左翼思想が、部落地域の日常政治へどこまで入っていたのか。

逆に、部落解放運動の行政交渉、識字、住宅、保育、奨学金という実装技術が、都市リブへどこまで運ばれたのか。

現時点では、簡単に一つの左翼史へまとめるべきではない。

むしろ、

  • 左翼教師のいた部落地域
  • 都市大学の学生運動
  • 地域の部落解放運動
  • 女性のウーマンリブ

は、同時代に存在しながら、十分に接続していなかった可能性がある。

ここは、今後さらに資料を探す必要がある。

9.三つの政治形式

ここまでの比較を、三つの政治形式として整理してみたい。

革命政治

主な対象は、社会全体と主体である。

成果は、

  • 支配的社会関係が変わったか
  • 正しい歴史方向へ進んだか
  • 革命主体が形成されたか

によって測られる。

改善政治

主な対象は、環境、制度、生活条件である。

成果は、

  • 読めるようになったか
  • 学校へ行けるようになったか
  • 住めるようになったか
  • 働けるようになったか
  • 現実の不利益が減ったか

によって測られる。

権利政治

主な対象は、個人の選択領域である。

成果は、

  • 他人が反対しても選択肢を使えるか
  • 思想的に未熟でも制度へアクセスできるか
  • 正しくなくても身体を守れるか
  • 国家と運動の双方から個人領域が守られるか

によって測られる。

もちろん、実際の社会運動はこの三つを混合している。

部落解放運動にも革命的言語と主体形成があった。

ウーマンリブにも制度改善と具体的な権利要求があった。

権利政治にも、社会構造の変革は必要である。

重要なのは、どの形式が最終審級になるかである。

具体的な権利要求が現れた時、

その選択は正しい主体を作るか。

が最終審級になるのか。

それとも、

その選択を本人が今日使えるか。

が最終審級になるのか。

ここで政治の性質が変わる。

10.「正しさへの応答」は、総括文化の変形なのか

現代の日本フェミニズムやアカデミアには、

私たちは学んだ。

私たちは応答した。

私たちは考え直した。

私たちは更新された。

という言説がある。

私はこれを、部落女性への応答ではなく、正しさへの応答ではないか、と考えてきた。

ただし、新左翼の総括文化が、そのまま現代フェミニズムへ直接継承されたと、現時点で断定することはできない。

その系譜を証明するには、

  • リブ当事者が「総括」をどう使ったか
  • 1970年代から80年代の女性運動文書で、自己批判や路線修正がどう語られたか
  • その語彙が大学フェミニズムへどう移ったか
  • 「応答」「学び」「位置性」という現在の語彙へ、どのような媒介があったか

を調べなければならない。

これは、別の記事一本分の課題である。

現段階で言えるのは、直接的な思想継承ではなく、政治形式の構造的な類似である。

誤りを具体的債務として処理するより、

自己批判し、正しい位置へ移動すること。

によって処理する。

謝罪は、

私はあなたに負債を負った。

と、相手を中心に置く。

総括は、

私は誤りを認識し、正しい路線へ戻った。

と、自分たちを中心に置く。

制度変更は、

誰が何を直し、どの資源を配分するか。

を問う。

思想更新は、

私たちは以前より正しくなった。

ことを成果にする。

この違いは大きい。

部落女性への応答なら、

なぜ無視してきたのか。

誰が何を怠ったのか。

どの権利が侵害されたのか。

どんな制度を作るのか。

が問われる。

正しさへの応答なら、

私たちは部落女性の語りから学び、より交差的になった。

で終わる。

当事者の証言が、正しい主体を生産する教材になる。

11.日本の「リベラル」には、どの政治文法が混在しているのか

日本語の「リベラル」は、かなり広い。

自由主義、社会民主主義、進歩主義、市民運動、新左翼、反差別運動が、同じ語のなかへ混在している。

問題を人物集団の偽装として捉える必要はない。

問うべきなのは、政治文法である。

日本で「リベラル」と呼ばれる政治空間の一部には、個人の選択領域を守る自由主義より、

正しい歴史方向へ主体を配置する政治文法

が強く残っているのではないか。

自由主義的な権利論なら、

私はその選択に反対だ。

私自身は選ばない。

それでも、あなたの選択肢は守る。

と言える。

しかし主体形成の政治では、

その選択は差別的ではないか。

支配構造を再生産しないか。

正しい解放へ貢献するか。

が先に問われる。

ここでは、自由が運動の正しさへ従属する。

正しくない選択をする自由。

運動へ貢献しない自由。

周囲から愚かに見える自由。

解放された主体らしく振る舞わない自由。

それらを、どこまで守れるのか。

これが、本当の意味でのリベラルかどうかを分ける問いになる。

12.失われた接合部

ウーマンリブは、女の身体、性、家族、母性、男への従属を言語化した。

それは大きな仕事だった。

部落解放運動は、行政交渉、地域組織、予算要求、施設整備、教育保障、識字、就労、保育、住宅という、生活条件を実際に変える工法を蓄積した。

両者が十分につながっていれば、

女性の身体を発見したウーマンリブの言葉

生活条件を国家へ請求した部落解放運動の工法

が接続したかもしれない。

リプロダクティブ・ジャスティスに必要だったのは、たぶん両方の最良部分だった。

自分の身体について語る言葉。

産む、産まない、育てるという選択を支える制度。

本人の意思を守る権利。

選択可能性を現実にする住宅、所得、医療、保育、教育、文化。

しかし実際には、都市型リブと部落地域は、階級、教育、地域、運動文化の違いによって分断されていた可能性がある。

都市リブは、部落問題を別運動の管轄と見た。

部落解放運動は、女性の問題を地域、労働、子ども、家庭、福祉のなかへ吸収した。

女性の身体は同じ場所にあった。

運動上の名札だけが違った。

13.権利は、解放された未来の褒賞ではない

権利は、正しい社会が完成した後に与えられるものではない。

解放された主体になった人だけが使えるものでもない。

愚かでも使える。

迷っていても使える。

男にコンドームを言えなくても使える。

同じ失敗をしても使える。

男に利用されているように見えても使える。

フェミニズムへ貢献しなくても使える。

権利とは、正しくない現在の人間が、今日使える防具である。

部落解放運動が示したのは、環境は変えられるということだった。

学校を作る。

識字学級を作る。

住宅を改善する。

保育所を作る。

奨学金を出す。

次世代の人生経路を変える。

それは革命を待たなかった。

不完全な国家を使い、国家へ責任を負わせ、現実を少しずつ変えた。

フェミニズムも、本来はそうであるべきではないか。

女を正しくする前に、薬を置く。

正しい性関係を作る前に、妊娠を回避できるようにする。

正しい思想へ更新する前に、相談先を作る。

正しさを証明できない女にも、権利を渡す。

結び

日本のウーマンリブは、男中心の新左翼へ反乱した。

しかし、正しい主体、自己批判、路線修正、体制への回収を警戒する政治文法まで捨てたのか。

もし捨てきれなかったのなら、日本のフェミニズムが権利を語りながら、権利を使う女の正しさまで審査してしまう理由の一部が見えてくる。

一方、部落解放運動は、同じ「解放」を掲げながら、革命だけを待たなかった。

主体形成も行った。

しかし、その主体形成を、要求書を書き、行政と交渉し、生活条件と次世代の人生経路を変える力へ接続した。

この二つの「解放」は、同じ言葉を使いながら、異なる政治的重心を持っていたのかもしれない。

革命政治は、社会と主体を変えようとする。

改善政治は、環境と制度を変えようとする。

権利政治は、正しくない個人にも選択領域を保障しようとする。

必要なのは、どれか一つを選ぶことではない。

主体を変える言葉が、環境を変える工法と、現在使える権利へ接続されることである。

妊娠可能性は革命を待たない。

薬の服用期限は総括を待たない。

暴力を受ける女は、正しい主体になるまで被害を保留できない。

権利とは、解放された未来の褒賞ではない。

正しくない現在の人間が、今日使える防具でなければならない。

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