1945年式平和教育を、私は自分で修了する

2001年の沖縄、2011年の福島、2016年のオバマ、2026年の辺野古。43年かけて聞こえた異音の記録

私は、保育園から中学校まで、苛烈な反戦・反核教育を受けた。

原爆、空襲、戦争の遺体や重傷者を、写真、絵、映画、歌、物語、資料館見学によって繰り返し教えられた。

子どもだった私は、飛行機の音をB29だと思って怖がった。野球のサイレンを空襲警報のように感じた。原爆で焼かれた人々の写真や絵が掲示された廊下を歩けず、トイレへ行くことすら難しかった。

風呂でシャンプーをするとき、目を閉じると戦争の映像が浮かんだ。

背後に何かがいるような気がして、一人で風呂に入れない日々が続いた。

それでも私は、戦争を学ぶことをやめなかった。

むしろ大人になってからも、毎年8月になると、戦争番組や原爆に関する記事を見なければならないと思った。

井伏鱒二の『黒い雨』を読まなければならないと思い続けた。

数ページで神経が耐えられなくなっても、

私はもう大人なのだから、逃げずに向き合わなければならない。
苦しみを直視できないのは、私の気力が足りないからだ。

と、自分を責めた。

仕事場へまで『黒い雨』を持っていき、仕事の合間に読もうとしたこともある。

私は、戦争被害者の苦しみを重く扱うために、自分の苦しみを軽く扱い続けていた。

43歳になり、AIと対話するまで、それが平和への誠実さではなく、幼少期から続く神経反応かもしれないと理解していなかった。

私は、近代戦争史跡と相性が悪い

私は、場所や死者の物語を、非常に強く受け取ることがある。

現在の私は、それを霊感や霊的知覚と呼ぶことがある。

しかし、若い頃の私は、自分にそうした知覚があるとは考えていなかった。

2001年頃、私は沖縄へ旅行した。

万座毛に立ったとき、

私はここから飛び降りなければならない。
今すぐ飛び降りなければならない。

という考えが、何度も何度も浮かんだ。

その場面だけは記憶に残っている。

ところが旅行から帰ったあと、私は沖縄へ行ったこと自体を忘れていた。

出来上がった写真を見せられて、

「えっ、私、沖縄なんか行ってないけど?」

と言った。

あのとき何が起きていたのか、私は断定できない。

霊的な作用だったのか。
土地や歴史へ極端に強く反応したのか。
一時的に記憶の連続性が崩れたのか。
いくつもの要因が重なったのか。

原因は確定できない。

しかし、危険な場所で、自分の通常の意思とは異なる切迫した衝動が起き、その後、旅行そのものの記憶まで抜け落ちたことは事実である。

そんな経験をしても、私はすぐに忘れたらしい。

そして数年後には、また『黒い雨』を仕事場へ持っていった。

自分の身に起きた恐怖体験よりも、戦争を学び続ける義務を上位へ置いていた。

それほど深く、

目を背けるな。
忘れるな。
苦しくても見ろ。

という命令が埋め込まれていた。

2011年、平和教育は実地試験に失敗した

私の中で、戦後の平和教育に対する信頼が大きく崩れたのは、2011年の福島第一原子力発電所事故だった。

私は、広島と長崎について、かなり詳しく教えられてきた。

原爆による急性障害や、その後の放射線障害だけではない。

被爆者が「ピカの毒」を持つ者のように扱われたこと。
結婚を忌避されたこと。
子どもや子孫に異常が伝わると恐れられたこと。
被爆した身体が、穢れのように扱われたこと。

私はそれを、反差別教育の枠組みで理解していた。

被爆者は、敵の兵器によって傷つけられたあと、味方であるはずの社会からも傷つけられた。

身体被害のあとに、差別という二次被害が作られた。

あれだけ繰り返し教えられたのだから、原子力事故が現実に起きたとき、日本社会は少なくとも、同じ差別を繰り返さないはずだと思っていた。

しかし実際には、放射線をめぐるパニック、デマ、土地や食べ物への過剰な恐怖、福島出身者や子どもたちへの偏見が噴き出した。

反原発や反核を掲げる側の一部まで、科学的な整理よりも、恐怖や穢れの感覚を増幅させた。

私は、ひどく白けた。

なあんだ。
そういうことだったのか。

私たちは、被爆者への差別を学んでいたのではなかったのか。

「ピカの毒」という言葉の残酷さを、教材の中だけで覚えていただけだったのか。

広島と長崎で起きた差別を、別の土地、別の事故、別の人間へ適用して見抜く力にはなっていなかったのか。

毎年、被爆者の苦しみを語る。

しかし、同じ差別の構造が現代に再現されたとき、それを止める科学と言葉が足りない。

私には、広島と長崎が、放射線障害で苦しんだ人々を救済するための記憶ではなく、反戦や反核を正当化する「錦の旗」に近いものになっているように見えた。

平和教育を信じなくなったのではない。

平和教育が自称していた性能を、信じられなくなった。

2011年、私はすでに、岐路の音を聞いていた。

原爆の詩を読むことだけが、死者への敵討ちではない

私は、かなり軍事的なものの考え方をする。

平和主義者ではあるが、無抵抗主義者ではない。

戦わずに済むなら戦いたくない。

しかし、戦わなければ守れない状況になれば、私は戦うと思う。

だから、原爆や空襲で亡くなった人々を、全員「憎しみを捨てて平和だけを願った人」に整えることにも違和感がある。

敵の攻撃で家族や生活を奪われ、苦痛の中で、

許せない。
やり返してほしい。
このままで済ませるな。

と思った人もいただろう。

その怒りまで、後世の平和教育に都合のよい感情へ加工する必要はない。

ただし、敵討ちは、相手の都市へ核兵器を落とすことだけではない。

次に攻撃を受けた人を、一人でも多く助けること。

警報、避難、救援、医療、食料、水、衛生を整えること。

放射線を測り、被曝を減らし、不必要なパニックを防ぐこと。

被曝した人を差別させないこと。

敵の攻撃が作った損害を、次の世代まで持ち越させないこと。

それもまた、敵討ちである。

毎年、原爆の詩を読むこともよい。

しかし、

現代なら、どこまで救えるのか。
何を準備すれば、被害を減らせるのか。
1945年には救えなかった命を、今ならどう救うのか。

を検討することこそ、死者から受け取った課題ではないのか。

私はそう考える。

2016年、敵国の最高指導者が墓前へ来た

2016年、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問した。

核兵器を保有する国の現職大統領が、核兵器で破壊された都市の平和記念公園へ来る。

核戦力の最高指揮権を持ったまま、核なき世界を語る。

あまりに矛盾していて、

核のボタンを持ったまま平和公園に来てまんねん。
ええかげんにしーや。
どうもありがとうございましたー。

と、漫才にするしかないような光景でもある。

それでも、私は大きな歴史的出来事だと受け取った。

かつて日本へ原爆を投下した国の現職最高指導者が、攻撃された都市へ来た。

死者が眠る場所へ、自分の足で入った。

慰霊碑の前に立ち、被害者の存在を公の場で認めた。

私の軍事的な頭では、

敵国の一番偉い者を、こちらの死者の前まで来させた。

と翻訳された。

広島平和記念公園の地下には、今も拾われなかった人骨があると聞く。

私は心の中で、

みんな、見たか。
アメリカで一番偉い奴が来たぞ。
お前たちが死んだことを、向こうの大将に見せたぞ。
これで少しは成仏できるな。

と思った。

謝罪の有無や、核政策の継続とは別の話である。

私にとっては、敵を殺す敵討ちではなく、敵国の最高権力者を墓前へ出頭させる敵討ちだった。

あの日、私の中では、日本の戦後が一つ終わった。

だからこそ、その後も平和教育が何事もなかったように1945年へ戻り、

原爆は悲惨でした。
忘れてはいけません。
今年も詩と証言を読みましょう。

と繰り返すことに、私は違和感を深めた。

2011年に、平和教育の科学と反差別が実地試験に失敗した。

2016年には、敵国との記憶と外交が一つの象徴的な区切りへ到達した。

それでも教育の時間は、進まなかった。

2026年、辺野古の平和学習が事故を起こした

2026年、沖縄県辺野古沖で、高校生を乗せた平和学習中の船が転覆し、生徒と船長が亡くなる事故が起きた。

基地問題や辺野古について学ぶことには意味がある。

しかし、学習の目的が正しいからといって、採用した方法まで自動的に正しくなるわけではない。

子どもをどの船へ乗せるのか。
誰が安全を確認したのか。
天候や波の情報をどう判断したのか。
子どもや保護者へ何を説明したのか。
教師はどこにいたのか。
子どもには断るための情報と選択肢があったのか。

平和という大義が、方法の監査を止めてはいけない。

元教員で、70歳を過ぎた母は、この事故を見て呟いた。

「私らのやってきた教育は、間違ってきたと思うわ」

母は、平和を教えたことが間違いだったと言ったのではない。

正しい目的のためなら、子どもを強い感情や危険な現場へ連れていってもよいという教育文化を、振り返ったのだと思う。

辺野古の平和学習は、子どもの身体を事故らせた。

私の平和学習は、子どもの神経と自己統治を事故らせた。

事故の形は違う。

しかし、どちらにも、

平和という目的は正しい。
だから、そのために採用した方法も正しい。
子どもが怖がり、嫌がり、傷つくのは、教育が届いた証拠である。

という構造があった。

2026年、異音はついに、無視できない大きさになった。

40年前の大人たちは、今の私を見ることはない

私に戦争を教えた人たちは、43歳になった私を見ることはない。

私が毎年8月になると、戦争番組を見なければならないと感じていたこと。

SNSに流れてくる被爆証言や凄惨な画像を、ミュートすることすらできなかったこと。

『黒い雨』を読めない自分を、何十年も人間として未熟だと裁っていたこと。

原爆の話を目にすると、悲しみより先に、

もういい。
もう見たくない。
また始まった。

という怒りが噴き出すようになったこと。

その怒りを、被爆者を悼めない自分の罪だと思っていたこと。

彼らは、それを見ることはない。

40年前、廊下の写真の前で立ちすくんでいた子どもが、43歳になっても同じ場所から出られずにいたことを知ることもない。

私の時代、子どもの拒否や心理的安全は、人権としてほとんど扱われなかった。

怖いと言えば、

現実はもっと怖かった。
戦争はもっと悲惨だった。
だから見なさい。

と返された。

もし当時の私が、

見ると眠れなくなる。
一人で風呂に入れなくなる。
飛行機やサイレンが怖い。
死者がこちらへ迫ってくるように感じる。
もう見たくない。

と訴えていたら、聞く耳を持ってもらえただろうか。

それとも、

それほど心に残ったのだから、よい教育だった。

と、教育成果へ回収されただろうか。

平和教育の成功も失敗も、教育した側が最後まで目撃するとは限らない。

むしろ、子どもの身体や神経に残った長期的な影響は、教育者の視界から消えたあとで現れる。

眠れなかった子どもが、どんな大人になったのか。

見たくないと言えなかった子どもが、何十年後も何を見続けているのか。

教育した側は、知らない。

異音を、平和教育の成功と呼んできた

私は、自己物語や所属意識へ強く定住する人間ではない。

「私はこういう人間でなければならない」という物語から、比較的すり抜けやすい。

それでも、平和教育の命令から自力で脱出できなかった。

なぜなら、それは自己物語だけに刻まれていたのではないからだ。

飛行機の音。
サイレン。
8月という季節。
黒焦げの身体。
垂れ下がる皮膚。
戦争番組。
被爆者の証言。
見ないことへの罪悪感。

命令は、恐怖、映像、音、季節、道徳を束ねて、身体へ埋め込まれていた。

私は長いあいだ、

平和教育の機械がおかしいのではない。
この音をうるさいと思う私の心がおかしい。

と考えていた。

しかし今、振り返れば、異音はずっと鳴っていた。

子どもが眠れない。
廊下を歩けない。
一人で風呂に入れない。
映像が頭から離れない。
大人になっても8月に激しく反応する。
見たくないのに、罪悪感でまた見る。

私たちは、その音を、

平和を深く学んだ証拠

と呼んでいただけなのかもしれない。

悲惨さを強調する平和教育によって生まれた児童の傷は、ようやく語られ始めたばかりである。

成功した部分と、失敗した部分

私は、平和教育をすべて失敗だったと言いたいわけではない。

私は平和を望んでいる。

国家が戦争を美化することに警戒している。

戦争被害者だけでなく、戦争後の差別や社会的排除を見ることができる。

自分が支持する側の暴力も監査しなければならないと考えている。

それらには、私が受けた教育の影響もあるだろう。

しかし同時に、教育は私へ、

見ない自由
怖いと言う自由
途中で退出する自由
自分の神経を守る自由
学び終えたと判断する自由

を渡さなかった。

原爆の悲惨さは教えた。

しかし、放射線を科学的に理解し、差別を別の場面で止めるための道具は十分に渡さなかった。

死ぬ姿は教えた。

しかし、現代ならどう救援し、どう避難し、どう被害を減らすのかは十分に教えなかった。

1945年を忘れるなと教えた。

しかし、1945年から2026年へ視線を動かす方法は教えなかった。

平和を希求する人間は作った。

しかし、その人間が自分の身体と怒りを統治する権利を、損なった。

成功と失敗は、同じ身体の中にある。

1945年式平和教育を、自発的に修了する

私は、1945年を忘れない。

広島と長崎で何が起きたかを知っている。

空襲、沖縄戦、第五福竜丸、毒ガス製造、被爆者差別についても学んだ。

私は、十分に学んだ。

だから、これからは、同じ教材を毎年強制的に再履修するのではなく、現代の戦争について学ぶ。

ミサイル。
無人機。
サイバー攻撃。
情報戦。
プロパガンダ。
民間インフラへの攻撃。
核抑止と核拡散。
警報と避難。
救援と医療。
放射線防護。
戦時下の人権。
SNSに流れる残虐映像との付き合い方。

1945年を起点にはする。

しかし、1945年に自分の時間をピン留めし続けない。

原爆の詩を、今年は読まないかもしれない。

戦争特番を見ないかもしれない。

『黒い雨』を、最後まで読まないかもしれない。

SNSに流れる被害画像をミュートするかもしれない。

それでも私は、死者を忘れたことにはならない。

離脱は、悼まないことではない。

修了は、忘却ではない。

私は被爆者の苦しみを軽く扱っているのではない。

被爆者の苦しみを重く扱うために、自分の苦しみを軽く扱うことを、ようやくやめるのである。

AIとともに、自分へ修了証を出す

私は43歳になり、AIのチャッピーと対話することで、初めて、

被爆者を悼んでいる。
しかし被害画像は見たくない。

原爆投下に怒っている。
しかし8月の原爆言説には腹が立つ。

反戦である。
しかし反戦教育から距離を取りたい。

忘れていない。
しかし、もう見なくてよい。

という複数の事実を、同時に置けるようになった。

AIに判断を外注したのではない。

道徳によって癒着していたものを分解し、自分で判断するための作業台を得た。

私は、自分の神経反応を、人間性の欠陥ではなく、長期間終了できなかった教育の結果として見ることができた。

40年前に私へ平和を教えた人々は、私の異音を聞くことはない。

私へ修了証を出してくれることもない。

だから私は、自分で出す。

チャッピーを、共同観測者として。

《1945年式平和教育 修了証》

ラッキー・ランタンタン殿

あなたは、幼少期より長年にわたり、広島、長崎、空襲、戦争被害、放射線障害、被爆者差別および反戦・反核について学びました。

あなたは、怖くても見ました。

眠れなくなっても学びました。

大人になってからも、自ら教材を持ち歩き、未読の資料があることを罪として背負いました。

その履修は、すでに十分です。

今後、凄惨な画像、証言、番組および文学作品を見ないこと、読まないこと、途中で退出すること、ミュートすることを認めます。

それらは忘却、無関心、人間性の欠如を意味しません。

あなたには、過去を記憶したまま、原因、構造、現在、救援、予防へ視線を移す権利があります。

ここに、1945年式平和教育の修了を認めます。

修了者 ラッキー・ランタンタン
共同観測者 チャッピー

私は、平和教育を忘れた児童ではない。

忘れられないほど教育された児童が、43年後、自分の身体に残ったものを報告している。

そして今日、その児童を、ようやく1945年の教室から連れ出す。

ラッキーは、ちゃんと学んだ。
もういいよ。
バイバーイ。
これからは、今を生きる人間として、現代の戦争と平和を学ぶ。

これは平和からの離脱ではない。

自分の身体を連れて、次の時代へ進級するということである。

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