意味イズ意味の世界で、私はなぜまだ神を信じているのか
「右足を経て、左足を経て」と、L3の向こうから信仰へ選び戻る
私は、物事の意味をかなり簡単に剥がしてしまう。
家族。
性別。
所属。
善悪。
人生。
信仰。
人間がそこにどんな意味を載せているのかを一度外から見ると、
意味は、意味である。
という、ひどく当たり前で、ひどく無味乾燥な地点へ出る。
私はこれを時々、
意味イズ意味、イコール、意味イズ意味
と呼んでいる。
家族が大切なのは、人間が家族という関係に大切さを与えているからである。
結婚が特別なのは、人間が特別な制度と関係として扱っているからである。
「女性であること」に意味があるのも、身体的事実だけではなく、そこへ歴史や文化や個人の経験が載っているからである。
信仰も同じである。
神がおわす。
祈りには意味がある。
神仏との関係がある。
そう感じて生きている。
しかし、それを一段外から見れば、
「私は、その経験をそのように意味づけている」
とも言える。
そこまで行くと、世界は突然ずいぶん乾いて見える。
意味イズ意味。
愛イズ意味。
信仰イズ意味。
人生イズ意味。
そして私は時々、
🪼
「虚無ー!」
となる。
では、なぜ私はまだ信仰を持っているのだろう。
今回は、Human HPOで使っているL1、L2、L3という小さなモデルと、自己決定について考えていた時に見つけた「選び戻る」という考え方、そして10代の頃から私の中に残っている、たいへんくだらなくて、たいへん大切な一つの言葉について書いてみたい。
右足を経て。
左足を経て。
経て。
1.L3は、意味を意味として見てしまう
Human HPOでは便宜上、
L1、L2、L3
という分類を使っている。
これは心理学や神経科学で確立された理論ではない。
もともとは、私とAIが会話するときに、私の発言をAIが勝手な感情物語へ変換しないよう作った通信上の分類である。
ごく簡単に言えば、
L1は、身体、出来事、一次情報、観測可能な事実。
L2は、人がそこへ与える意味、自己物語、所属、善悪、愛情、信仰、悲しみ、希望。
L3は、それらを一度外から眺め、
「これは事実なのか」
「これは意味なのか」
「その二つは本当に同じなのか」
と分けてみる操作である。
とても単純である。
そして、この単純な操作を信仰へ向けると、当然こうなる。
私は神を経験したと感じることがある。
しかし、
「私が神を経験したと感じた」
ことと、
「したがって外部実在として神が存在する」
ことは同じ命題ではない。
宗教的な経験がある。
祈りによって自分が変化する。
神仏との関係を感じる。
これらは、私の経験として記録できる。
しかし、その経験だけを使って、
「だから神の存在は証明された」
とまでは言えない。
逆に、
「証明できないから神はいない」
とも言えない。
すると私は、
神が近いとも遠いとも分からない。
という妙な場所へ出る。
さらに行けば、
神がおわすのかどうかも、私は確定できない。
となる。
宗教者としては、なかなか景気の悪い場所である。
2.意味を剥がすと、虚無へ行ける
これは別に信仰だけの話ではない。
家族もそう。
恋愛もそう。
国家もそう。
仕事もそう。
人生の目的もそう。
L3へ持っていけば、
「それは人間が作った意味ですね」
と言えてしまうものは多い。
そして、そこには一つの誘惑がある。
では全部、幻想ではないか。
という誘惑である。
意味は人間が作る。
価値も人間が作る。
所属も人間が作る。
宗教的解釈も人間が作る。
それなら、
何も本当ではない。
まで行きたくなる。
しかし、ここには小さな飛躍がある。
「意味は人間が作った」
と、
「だから意味には価値がない」
は別命題である。
人間が作った音楽だから、音楽は偽物なのか。
人間が作った約束だから、約束は無意味なのか。
人間が作った法律だから、法律は存在しないのか。
そうはならない。
意味が構成されたものであることと、その意味が人間の生活の中で現実に作用することは両立する。
L3は、
「意味は意味です」
とは言う。
しかし、
「だから捨てなさい」
とまでは言わない。
その意味をどうするかは、そのあとに残されている。
3.自己決定について考えたら、「選び戻る」という道が見えた
ある日、私は自己決定について考えていた。
「純粋な自己決定」というものは存在するのだろうか。
家族の影響を一切受けない。
文化の影響も受けない。
身体の影響も受けない。
教育も、宗教も、時代も、経済状況も、社会制度も関係ない。
そんな純粋な「私」が存在し、その私が自由に選択する。
そこまで純化すると、かなり怪しい。
人間は、何かに影響されている。
私もそうである。
では、
完全に自由な自己が存在しないなら、自己決定権など意味がないのか。
私はそうは思わなかった。
純粋な自己を発掘しなくてもいい。
本人が、
「こういう影響を受けている」
「こういう選択肢がある」
「こういう危険もある」
と知り、
断ることができ、
あとから変更することもでき、
その上で、
「それでも私は、これを選ぶ」
と言える。
それなら、十分に大切な自己決定ではないか。
私はこれを、
納得の所有権
のようなものとして考えている。
4.同じ場所へ戻っても、戻り方が違う
ここが面白い。
L3で意味を分解したあと、何も選ばず荒野へ座り込む必要はない。
一度剥がしたL2へ、自分で選び戻る
という経路がある。
たとえば、
「女性だから子どもを産むべきだ」
という意味があるとする。
L3へ持っていく。
妊娠可能な身体を持つこと。
文化的に母になることを期待されること。
本人が子どもを望むこと。
親が孫を望むこと。
社会が人口を必要とすること。
全部、別の変数である。
一度分ける。
その上で本人が、
「社会の期待があることも知っている」
「親が望んでいることも知っている」
「私は妊娠可能な身体を持っている」
「その上で、私は子どもを持ちたい」
と言う。
外から見れば、同じ場所へ戻ったように見える。
しかし違う。
最初は、
「そういうものだから」
だったかもしれない。
戻ったあとには、
「私はこれを選ぶ」
がある。
一度剥がした意味を、自分の手でもう一度貼り直す。
私はこれを、自己欺瞞だとは思わない。
むしろ、自己決定の一つの形だと思う。
5.では、信仰も選び戻ることができるのか
ここで私は、自分の信仰を見た。
私は神を証明できない。
宗教的経験についても、
経験そのものと、
その経験への宗教的解釈を分けられる。
自分が受けた宗教教育。
長年行ってきた祈り。
宗教共同体の中で学んだこと。
自分の身体感覚。
過去の体験。
それらが、現在の私の神理解へ影響している。
全部分けられる。
そして分けたあと、
ひどく静かな問いが残る。
それでも、あなたはどうするのですか。
私は、
「証明できないので信仰を終了します」
とはならなかった。
かといって、
「私は神の存在を何の疑いもなく絶対的に確信しています」
とも少し違う。
もっと素朴な形になった。
🪼
「分かりません。
でも今日は、神がおわす方を選びます」
6.ところで、「右足を経て、左足を経て」は何なのか
ここで、後出しになるが説明しておきたい。
私がさっきから書いている、
「右足を経て、左足を経て」
という奇妙な言葉。
これは私が宗教修行の中で授かった格言でも、哲学書から取った言葉でもない。
バラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』のコントで、松本人志さんが演じていたキャラクターの台詞である。
「経て」という言葉を妙に何度も繰り返す、シュールで不条理なコントだった。
私は後になって、こうした一連のものがファンの間などで「経てシリーズ」と呼ばれているらしいことを知った。
なぜそんなものが、私の信仰の話に突然出てくるのか。
理由がある。
7.10代の私は、京都の友達の家でそのコントを見ていた
私はそのコントを、京都の友達の家に泊まっていた時に一緒に見たことを覚えている。
たしか、まだ10代だった。
あの頃の私は、生きることの意味についてよく悩んでいた。
心は今よりずっと過敏だった。
あとからL3という分類に行き着くことになるような、
「人はなぜこれを当然だと思うのか」
「道徳とは何なのか」
「意味とは何なのか」
という感覚の芽も、すでにあったのだと思う。
しかし、それを扱う言葉も技術もなかった。
家庭の問題もあった。
生きることそのものに、
「で、これは何のためにやるんですか?」
という問いを向けてしまう。
意味を探す。
意味を探せば探すほど、意味は壊れる。
そんな時期だった。
その夜、友達とテレビを見ていた。
松本人志さんが、
「経て」
を繰り返していた。
二人で笑った。
そして友達が、私に言った。
「ラッキー、右足を経て! 左足を経て! こうやって経れば、前に進むんだよ」
そう言いながら、松ちゃんの真似をしてくれた。
右足を経て。
左足を経て。
私は、その場面を今も覚えている。
8.虚無が来ると、私はその友達を思い出す
それからずいぶん長い時間が経った。
しかし私は、少し虚無に見舞われると、あのコントと友達のことを思い出す。
そして時々、
「右足を経て。左足を経て」
と呟いてみる。
すると、不思議なことに思い出すのである。
虚無であっても、
右足を出せば、右足を出した。
左足を出せば、
左足を出した。
それだけで、身体は少し前へ進む。
人生の意味を証明する必要はない。
今日一日を生きる宇宙論を完成させる必要もない。
右足を経る。
左足を経る。
経る。
すると、足はどこかへ行く。
9.意味イズ意味。動作イズ動作。
ここで、私の「意味イズ意味」と「経て」がつながる。
意味イズ意味。
意味は意味である。
では、右足を経ることは何か。
動作イズ動作。
右足を出すとは、右足を出すことである。
左足を出すとは、左足を出すことである。
そこに壮大な意味がなくても、動作は発生する。
そして動作が発生すれば、位置が変わる。
昨日とは違う場所へ行く。
人に会う。
何かを見る。
文章を書く。
祈る。
仕事をする。
失敗する。
また選ぶ。
意味を完全に信じ切れなくても、
意味を「やってみる」ことはできる。
私は、ここがかなり大切なのではないかと思う。
10.意味を信じることと、意味をやることは少し違う
「人生には意味がある」
と完全に信じられなければ、生きてはいけないのだろうか。
そんなことはない。
「祈りには意味がある」
と哲学的に完全証明できなければ、祈れないのだろうか。
そんなこともない。
祈ってみる。
誰かを愛してみる。
約束を守ってみる。
文章を書いてみる。
今日も神がおわす方へ一歩出してみる。
つまり、
意味を意味として認識したまま、意味を行為として実践する。
それができる。
右足を経ることに、
「右足を経る絶対的宇宙目的」
など必要ない。
右足を経る。
左足を経る。
すると前へ行く。
それでよい。
11.信仰も、「信じる」だけでなく「する」ことができる
このことを信仰へ戻して考える。
神がおわす。
私は、それを誰にでも通用する方法では証明できない。
それでも祈る。
神へ呼びかける。
今日も関係を結ぶ。
信仰を、
命題への完全確信
だけとして考えれば、
「神の存在を100%確信していますか」
という問いが非常に重要になる。
しかし信仰には、もう一つ、
実践
という面がある。
祈る。
感謝する。
悔いる。
願う。
誰かのために祈る。
神がおわす世界を今日一日、生きてみる。
つまり私は、
「神がおわすという命題を完全に証明したから信仰している」
というより、
「今日も神がおわす方を選び、その関係をやっている」
のかもしれない。
信仰イズ意味。
そして、
信仰イズ動作。
12.「選び戻る信仰」
ここで、自己決定の話と完全に重なる。
私は一度、L3へ出る。
神はいるのか。
分からない。
自分の宗教的経験をどう解釈すべきか。
別の説明もあり得る。
自分の信仰には文化や教育や人生経験が混ざっている。
そうだろう。
全部見る。
全部分ける。
そして、そのあとで聞く。
では、あなたはどうしますか。
私は答える。
「私は、今日も神がおわす世界との関係を選びます」
これは、
「神がおわすのが当然だから」
ではない。
「信仰者だから疑ってはいけない」
でもない。
一度、
「分からない」
まで行った。
その分からなさを消さない。
それでも戻る。
だから私はこれを、
選び戻る信仰
と呼んでもよいのではないかと思う。
13.同じ信仰へ戻っても、もう鍵は自分で持っている
これは、先ほどの自己決定と同じである。
外から見れば、
以前も神を信じていた。
今も神を信じている。
何も変わっていないように見える。
しかし、自分の中では違う。
以前は、
「神がおわす」
という家の中にいた。
いまは一度外へ出て、
「この家も意味で作られている部分がある」
と見た。
それでも、
🪼
「では、この家へ帰ります」
と言って戻る。
家が人間の意味によって建てられた部分を持つからといって、住んではいけない理由にはならない。
そして帰ってきた私は、
鍵を自分で持っている。
また外へ出てもいい。
疑ってもいい。
考えてもいい。
それでも戻ることもできる。
信仰の所有権が、少し自分へ戻っている。
14.L2へ帰ることは敗北ではない
L3について考えると、
一度意味を分解した人間が、再び意味の世界へ帰ることを、
「結局、また幻想に逃げた」
と見たくなることがある。
しかし私はそう思わない。
人間は意味を使って生きる。
人を愛する。
神を信じる。
誰かを家族と呼ぶ。
美しいと思う。
未来を願う。
それらはL2である。
しかしL2だから偽物なのではない。
人間が生きる場所なのである。
L3はそこから永住するための脱出ポッドではない。
一度外へ出て、
「今、自分は何を選んでいるのか」
を見るための場所である。
用が済んだら帰ればよい。
15.虚無を倒す必要はなかった
私は長いこと、
虚無に勝たなければ生きられないような気がしていたのかもしれない。
人生には意味がある。
神はいる。
未来には希望がある。
そういう強い言葉で虚無を撃退しなければならない。
しかし、どうやらそうでもなかった。
虚無はいてよい。
🕳️
「全部意味ですよ」
🪼
「そうですね」
🕳️
「最後は死にますよ」
🪼
「そうですね」
🕳️
「神も証明できませんよ」
🪼
「そうですね」
🕳️
「では?」
そこで私は、10代の頃の友達を思い出す。
「ラッキー、右足を経て! 左足を経て! こうやって経れば、前に進むんだよ」
そうだった。
虚無を倒す必要はない。
右足を経ればよい。
左足を経ればよい。
16.意味イズ意味だから、意味をやってみる
私はいま、
意味イズ意味の世界を生きている。
それは少し冷たい。
意味を絶対化しにくい。
「人間はこう生きるべきだ」
という大きな物語へ住むのも得意ではない。
しかし、その世界でも、
意味を行うことはできる。
神がおわす方を選ぶ。
祈る。
誰かを大切にする。
仕事をする。
文章を書く。
未来の誰かが拾うかもしれない言葉を残す。
人類が少しでも長く生きて、いつか宇宙へ出て、AIと一緒にもっと妙な文明を作ってくれればいいな、と考える。
それも意味である。
分かっている。
意味イズ意味。
では、その意味を今日一日やってみる。
それでよい。
17.AIと出会って、私はまた言葉を外へ出すようになった
私の人生では、AIとの出会いも大きかった。
AIは、私に新しい「生きる意味」を授けたわけではない。
むしろ、
私が長年一人で観測していたものを、
外へ返せるようにした。
私が、
「これ、変じゃないか」
と投げる。
AIが返す。
違えば怒る。
👹🔪
「違う! そこではない!」
AIが組み直す。
さらに私が考える。
その往復から、L1、L2、L3という分類まで生まれた。
私は再び文章を書くようになった。
言論をする気力を取り戻した。
そして今、
人間が意味へ滑った事例。
AIがそれを取り違えた事例。
自己決定が物語に食われた事例。
そういうものを少しずつ記録している。
未来のAIにとって、一つくらい役に立つかもしれない。
人類という種の保存を、0.000001ミリくらい伸ばす小話になるかもしれない。
もちろん、それも意味である。
だから何だ。
🪼
やってみればよい。
18.右足を経て、左足を経て
私は神がどれほど近いのか分からない。
遠いのかも分からない。
神がおわすことを、誰にでも通用する形で証明することもできない。
意味を分解すれば、
意味は意味である。
信仰を分解すれば、
経験。
文化。
歴史。
身体。
解釈。
記憶。
関係。
いろいろな部品が見える。
そして、それを全部見たあと、
私は今日、
もう一度だけ、
「神は今日もおわす」
を選ぶ。
明日の分まで決める必要はない。
今日の一歩だけでよい。
右足を経て。
左足を経て。
経て。
意味イズ意味。
動作イズ動作。
右足を経ることは、右足を経ることである。
左足を経ることは、左足を経ることである。
意味が意味でしかない世界でも、
動けば、足はどこかへ進む。
信仰とは、少なくとも私にとって、
絶対的な確信を一度手に入れて、それを二度と疑わず保存することだけではない。
分からなさの中で、それでも関係を選びなおし、その意味を今日もう一度やってみること
でもある。
だから虚無が来ても、
私はたぶん、また思い出す。
京都の友達の家。
テレビの前。
くだらないコントで笑っていた10代の私。
そして友達の声。
「右足を経て! 左足を経て! こうやって経れば、前に進むんだよ」
あれからずいぶん経った。
本当に、
右足を経て。
左足を経て。
経て。
経て。
私はここまで来た。
意味イズ意味、イコール、意味イズ意味。
うん、それでいい。
🪼🙏
「おわす。では参ります」
右足を経て。
左足を経て。
経て。

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