女の慎みはいつ女らしさになったのか|修道生活・鏡・都市が変えた女性像

女の慎みはいつ女らしさになったのか|修道生活・鏡・都市が変えた女性像

修道生活では、「慎み」が大事にされる。

そして、修道女らしくあることが大きなテーマになる。

衣服の乱れ。
ベールのズレ。
フェイスベールから出た髪。
歩き方。
声の大きさ。
目の使い方。
沈黙の保ち方。
祈る身体として、その場にどういるか。

それらは、姉妹たちによって静かに見られている。

しかし、それは俗世的な意味での「見られる」とは少し違う。

修道生活には「目の慎み」がある。

姉妹たちは見ている。
しかし、ジロジロ見ない。
気づく。
しかし、凝視しない。
直す。
しかし、身体像を評価しない。

たとえば、フェイスベールから髪が出ている時、姉妹が「世間が出ていますよ」と知らせてくれる。

こちらは「あら、お恥ずかしい」とその場で直す。

この時、恥ずかしいのは、肉体そのものではない。

髪があることが恥なのではない。
身体が恥なのでもない。
修道女として覆われるべきものが、世俗のしるしとして少し出てしまったことが、いやはや、お恥ずかしいのである。

これは、自己像の傷ではない。

共同体の中で、神の前にある身体として、少し配置を乱してしまったことへの恥である。

ここから、私は一つの問いを持つようになった。

人は、まなざしによって形成されるのか。
それとも、行為によって形成されるのか。

修道生活においては、確かにまなざしはある。

しかし、修道女は、まなざしによって「身体像」として作られるのではない。
祈り、沈黙、衣服、日課、目の慎み、共同体の微修正という行為によって形成されていく。

この修道生活の経験から、私は「女らしさ」という近代的な語彙を少し疑うようになった。

女らしさとは、もともとあったものなのか。

それとも、「女の慎み」と呼ばれていた行為や徳目が、鏡、都市、雑誌、写真、教育、ファッションを経て、女性像として再包装されたものなのか。

慎みは、身体をどう置くかの徳目だった

「女の慎み」とは、身体をどの場にどう置くかの語彙だった。

それは、見た目の問題だけではない。

どこで目を伏せるか。
どのように歩くか。
誰の前で何を見せないか。
どの声量で話すか。
どこまで感情を出すか。
性的境界をどう保つか。
家や共同体を乱さないか。
神、家、夫、親族、共同体の前で、身体をどう配置するか。

前近代の女性規範は、多くの場合、「私は女らしく見えるか」という自己像の問題ではなかった。

それは、もっと行為に近い。

慎み。
たしなみ。
貞淑。
羞恥。
性的控えめさ。
従順。
家政。
母として、妻として、娘として、その場にどういるか。

日本でいえば、江戸期以降に広く読まれた女子教訓書『女大学』のような世界がある。『女大学』は女子の修身・斉家の心得を説く教訓書として説明され、そこでは「女らしさ」という抽象語よりも、夫に仕えること、慎むこと、家内を治めることのような行為規範が中心にある。

つまり、ここでの女性徳目は、身体を共同体の秩序へどう置くかの問題だった。

ヨーロッパでも、まずあったのは慎みと徳目だった

ヨーロッパでも、似た構造がある。

英語の femininity やフランス語の féminité という語自体は古い。英語 femininity は15世紀初めごろの用例があり、フランス語 féminité も13世紀語だが、19世紀に再び使われるようになった語として説明されている。

だから、「女らしさ」という概念が19世紀にゼロから発明された、と言いたいわけではない。

重要なのは、語の存在ではなく、語の働き方である。

前近代から近世のヨーロッパでは、女性向けの教訓書、礼法書、家庭内の振る舞いを説く文書が多く存在した。そこでは、女性はどのようにふるまうべきか、どのように家を治めるべきか、どのように貞淑であるべきかが説かれる。近世ヨーロッパの女性向け助言書は、日常生活の助言と振る舞いの規範を示すものとして広く読まれていた。

ここでも中心にあるのは、女性像というより、女性の行為である。

慎み深くあること。
貞淑であること。
沈黙を保つこと。
性的名誉を守ること。
身分にふさわしくふるまうこと。
家の秩序を乱さないこと。

これは、修道生活で私が感じた「身体を神と共同体の前にどう置くか」という感覚に近い。

もちろん修道女と世俗女性は違う。
しかし、ここには共通する配管がある。

身体は、まず場に置かれていた。
女は、まずふるまいとして規定されていた。

徳目が「女の本性」へ変わる

しかし近代に向かうと、変形が起きる。

慎みなさい。
貞淑でありなさい。
従順でありなさい。

こうした外的な行為規範が、しだいに「女とはそういうものだ」という本性論へ近づいていく。

たとえば19世紀の英米圏では、いわゆる “True Womanhood” や “Cult of Domesticity” と呼ばれる女性理想が強くなる。Barbara Welter の有名な整理では、19世紀アメリカの「真の女性らしさ」は、敬虔、純潔、従順、家庭性という四つの徳目で説明される。

ここで、慎みは単体ではなくなる。

敬虔。
純潔。
従順。
家庭性。

これらが束ねられ、「真の女性」「女性らしい女性」の像になる。

つまり、行為の徳目が、女性像の徳目へと組み替えられる。

「慎みなさい」から、
「慎み深いことが女らしい」へ。

「家を守りなさい」から、
「家庭的であることが女らしい」へ。

「性を控えなさい」から、
「純潔であることが女らしい」へ。

ここで、女性徳目は、個々の行為ではなく、女という像の中へ吸収されていく。

鏡と都市が、女らしさを自己像に変える

では、なぜそれが「自己像」になるのか。

ここで鏡が出てくる。

鏡は、身体を返す。

写真は、身体を固定する。

雑誌は、身体を比較可能にする。

ファッションは、身体を時代の形へ合わせる。

学校教育は、身体と態度を集団の中で整える。

都市は、身体を見られる場所へ出す。

ここで、「女の慎み」は変形する。

神、家、共同体の前で身体をどう置くか、という徳目だったものが、
鏡、写真、雑誌、都市の視線の中で、女という像をどう見せるかの徳目になっていく。

これが、「女らしさ像」の誕生である。

慎みは消えたのではない。

慎みは、鏡の中へ入った。

貞淑も、羞恥も、性的控えめさも、柔和さも、しとやかさも、家庭性も、清潔感も、優美さも、自己演出の要素として、女らしさの中へ再包装されていった。

ここで、女性規範は行為から自己像へ移る。

慎み
=神・家・共同体の前で、身体をどう置くか

女らしさ
=都市・鏡・写真・雑誌・社会の前で、女という像がどう見えるか

この変化は、とても大きい。

なぜなら、行為なら、その場で直せる。

ベールから髪が出ていれば、直せばいい。
声が大きければ、抑えればいい。
歩き方が乱れれば、整えればいい。

しかし、自己像になると、終わりがない。

私は女らしく見えるか。
私は清楚に見えるか。
私は慎ましく見えるか。
私は魅力的に見えるか。
私は古臭く見えるか。
私は新しい女に見えるか。
私は社会に通用する女性像か。

鏡の中の問いは、いつまでも終わらない。

「新しい女」が古い慎みを壊し、同時に新しい女らしさを作る

19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパでは、”New Woman” が登場する。

Sarah Grand は1890年代に “New Woman” という語を用い、この時期の英語圏では、教育を受け、独立を求め、従来の女性役割を越えようとする女性像が文学や社会論争の中で注目された。British Library も、1890年代半ばに New Woman fiction が盛んになったことを説明している。

新しい女は、古い慎みと衝突する。

自転車に乗る。
外へ出る。
教育を受ける。
働く。
結婚だけを人生の目的にしない。
性的二重規範を問う。
服装を変える。
声を持つ。

これは、前近代的な慎みから見ると、かなり危うい。

しかし同時に、「新しい女」もまた、像である。

古い女らしさを壊すために、新しい女の姿が作られる。

新しい服。
新しい髪。
新しい態度。
新しい歩き方。
新しい職業。
新しい言葉。

つまり、20世紀初頭には、古い慎みと新しい女像が同居していた。

ヨーロッパ都市では、女はすでに行為だけでなく、像として争われていた。

日本では、良妻賢母と新しい女が同居した

日本でも、よく似た変化がある。

明治期の女子教育では、良妻賢母という近代的な女性像が大きな位置を占める。良妻賢母は古い儒教的女性像そのものではなく、近代国家の中で妻・母として女性を位置づける新しい女性像として研究されている。

ここが重要である。

良妻賢母は、単なる前近代の女の慎みではない。

それは近代国家のための女性像だった。

妻として夫に従い、
母として子を育て、
家を守り、
国民を育てる。

ここで女性徳目は、家と国家の接続点になる。

慎み、従順、家政、母性、教育、清潔、礼法。

それらが、良妻賢母という近代的な女性像へ束ねられる。

一方、1911年には『青鞜』が創刊される。平塚らいてうらによる『青鞜』は、日本の近代における女性の目覚めを宣言した雑誌として説明され、「新しい女」たちの群像と結びついて語られている。

「新しい女」は、良妻賢母と衝突した。

しかしここでも、単に古い慎みが壊れたのではない。

良妻賢母も像であり、
新しい女も像だった。

日本の20世紀初頭では、女性は複数の像のあいだに置かれた。

良妻賢母。
女学生。
新しい女。
職業婦人。
モダンガール。
母。
妻。
少女。
婦人。

そして、その像は、雑誌、新聞、写真、学校、都市、服装、髪型、言葉づかいによって増幅されていく。

「女らしさ」は、議論される語になった

大正から昭和にかけて、日本語でも「女らしさ」ははっきり議論の題名になる。

与謝野晶子の「『女らしさ』とは何か」は1921年、大正10年に『婦人倶楽部』に発表されている。

岸田國士の「『女らしさ』について」は1939年、昭和14年に『婦人公論』に掲載されている。

宮本百合子の「『女らしさ』とは」は1946年、昭和21年に『アカハタ』に発表されている。

これはとても大きい。

「女らしさ」が、ただの語ではなく、論じるべき問題になっている。

つまり20世紀の日本では、女らしさはすでに自明な徳目ではなく、問い返される対象になっていた。

なぜ女らしさが必要なのか。
誰が女らしさを決めるのか。
女らしさとは本当に女性の本質なのか。
女らしさは女性を縛るものなのか。
それとも、女性の力になりうるものなのか。

ここで、女性徳目は完全に自己像の問題へ入っている。

女としてどうふるまうか、だけではない。
私は、どの女性像を生きるのか。

これが20世紀の問いになる。

修道生活と近代女性像の違い

ここで、修道生活に戻る。

修道生活では、姉妹たちのまなざしはある。

しかし、それは肉体を美醜や魅力として評価する視線ではない。

修道女らしくあるか。
慎みを保っているか。
神の前にある身体として乱れていないか。
共同体を騒がせていないか。
世間が出ていないか。

乱れていれば、その場で直す。

ここでは、身体は共同体の中へ戻される。

しかし近代都市では違う。

乱れは、自己像へ残る。

鏡に映る。
写真に残る。
雑誌と比較される。
学校で評価される。
都市で見られる。
男の視線、女同士の視線、広告の視線、社会の視線が、鏡を通って自分の目になる。

ここで、女であることは、行為だけでなく、像になる。

修道生活の慎みは、身体配置の徳目だった。

近代の女らしさは、女性像の徳目になった。

この差は大きい。

女の慎みは消えたのではない

女の慎みは消えたのではない。

慎みは、女らしさの中へ入った。

貞淑も、羞恥も、性的控えめさも、柔和さも、しとやかさも、清潔さも、家庭性も、母性も、優美さも。

それらは、鏡と都市の文化を経て、女らしさ像の徳目になった。

そして、雑誌、写真、ファッション、教育、社会変化、思想の発展によって、女であることは、行為から自己像の監査へ移っていった。

これは、Human HPOにとって重要な発見である。

なぜなら、鏡に映る女らしさは、HPO身体を映さないからである。

鏡は、女らしさを映す。

しかし鏡は、排卵を映さない。
出血を映さない。
子宮を映さない。
卵巣を映さない。
内分泌を映さない。
妊娠可能性を映さない。
産褥を映さない。
痛みを映さない。
疲労の理由を映さない。

近代の女らしさは、見える女を作った。

しかし、見えない女性身体を後ろへ下げた。

ここに、HPOから見たジェンダー論の大きな穴がある。

女らしさは、鏡面化された慎みである

私はこう整理したい。

女の慎みとは、神・家・共同体・婚姻秩序の前で、身体をどう置くかの徳目だった。

女らしさとは、都市・鏡・写真・雑誌・学校・社会の前で、女性像をどう見せるかの徳目になった。

慎みは、身体配置の語彙だった。

女らしさは、自己像監査の語彙になった。

そして20世紀とは、その変形が激しく鳴った時代だった。

ヨーロッパでは、慎み、貞淑、家庭性、敬虔、純潔が、femininity や womanliness の中へ束ねられた。
そこへ New Woman が現れ、古い女らしさを壊しながら、新しい女像を作った。

日本では、慎み、従順、家政、母性が、良妻賢母という近代国家の女性像へ束ねられた。
そこへ『青鞜』や新しい女が現れ、女らしさそのものを問い返した。

どちらも、女の徳目が消えたのではない。

徳目が、像になったのである。

そして像になった瞬間、女性は鏡の前に立たされる。

私はどう見えるか。
私は女らしいか。
私は慎ましく見えるか。
私は古い女か。
私は新しい女か。
私は社会に通用する女性像か。

この問いは、行為の問いよりも深く、しつこく、身体へ刺さる。

なぜなら、鏡の中の像には終わりがないからである。

結び

修道生活で、髪がフェイスベールから出ていれば、姉妹が教えてくれる。

「世間が出ていますよ」

私は「あら、お恥ずかしい」と直す。

それで終わる。

身体は共同体へ戻る。
慎みは行為へ戻る。
私はまた祈りへ戻る。

しかし近代都市では、鏡がそれを終わらせない。

髪が出ている。
服が乱れている。
女らしくない。
慎ましく見えない。
古く見える。
新しすぎる。
魅力が足りない。
清楚ではない。
自由すぎる。
野暮ったい。

鏡は、身体の乱れを、自己像の問題へ変える。

ここに、女の慎みから女らしさへの大きな変形がある。

女の慎みは、消えたのではない。

鏡の中で、女らしさになった。

そして女らしさは、女であることを、行為から自己像の監査へ移していった。

だから私は、鏡に問い返したい。

あなたが映している女らしさは、誰のためのものなのか。

そして、あなたが映さない女性身体は、どこへ行ったのか。

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