12世紀イベリア辺境砦の食卓と、婚家で知った食の余剰
12世紀イベリア辺境砦の食卓と、婚家で知った食の余剰
12世紀の私、つまりラッキー・ランタンタンの中に流れている何らかの記憶、もしくは映像のようなものの中の私について、これまで砦における貴族少女の一日の生活、貴族少女の恋、そして貴族少女の生きた砦の生態を少し書いてきました。
この流れで父と母のことを書こうかな、と思っていましたが、今回は食べ物について書くことにします。一日の流れの中でも少し触れましたが、もう少し深く書いてみましょう。
もし現代の私たちが、12世紀のイベリアにタイムスリップすることになったら、どんな食事になると思うでしょうか。
パンとチーズと何らかのスープとワイン。
おおむね当たりです。
では、スープというとどんなものを想像するでしょうか。
野菜でしょうか。はい、野菜も一応入っています。
香草も入っています。塩も入ります。時には肉や魚や油脂の旨みが足されることもあります。けれど、私の記憶の中で、その時代の食事にほとんど逃げ場なくついてくるものがあります。
豆です。
そう、この時代の食事に必ずついてくるもの。
それが豆なのです。
豆からは逃げられない
この時代は、現代のように「朝ごはん」とは呼ばず、朝は軽食に近いものでした。
朝の軽食。
昼の食事。
夜の食事。
そのどこかに、かなりの確率で豆がいます。私の記憶にある豆は、現代の日本人が春に喜んで食べる、青くてぷりっとしたそら豆ではありません。
白く、大きく、平たい。 まるで囲碁の白い石のような豆です。
煮込まれると、皮と中身がほどけ、口の中でざらっと、むにょっと潰れます。 私はその食感が、どうにも好きではありませんでした。現代で「豆スープ」と書くと、少し美味しそうに聞こえるかもしれません。
しかし、そこで現代人は勝手にいろいろなものを足してしまいます。
ブイヨン。
コンソメ。
ベーコン。
バター。
胡椒。
クリーム。
現代の品種改良された豆。
ミキサーで滑らかにされたポタージュ。
そういうものではありません。砦の日常の豆スープとは、もっと素朴で、もっと重いものです。
水に豆と野菜と香草を入れ、火にかけて、ぐつぐつと煮ます。ある時は油脂や肉や魚の旨みが足されます。
しかし朝の軽食に出るものなどは、かなり薄いものです。
香草の香りはするけれど、旨みが深いというより、温かい香草のうわずみ汁に豆が入っているようなものです。
なーにがスープだ。そう言いたくなります。
けれど、豆は腹を満たします。身体を作ります。冬を越すための食べ物です。好きではないから食べない、ということはできません。
一応、辺境とはいえ、貴族のお嬢様なのなら、豆は食べませんと言えたのでは?と思いますよね。
いえ、貴族として、砦の領主の娘として、未来の貴婦人として、そのような思考回路は基本的に持ちません。
現代のイメージだとびっくりしますよね。
砦では食べ物が、
- 台所の労働
- 保存食管理
- 冬越しの計算
- 家畜の維持
- 教会暦
- 身体を育てる義務
- 乳母の責任
- 使用人たちの労働
と全部つながっています。
なので豆スープ一杯はただの豆スープではありません。
砦の食料配管の末端にある豆スープなのです。
それを領主の娘が「嫌です」と投げると、単なる好き嫌いではなく、
台所の労働を軽んじ、乳母の身体管理を拒み、主から与えられた食物を粗末にするという、女主人の卵として未熟かつ砦の倹約秩序を乱す、未来の不安定を呼び込む存在として、果ては領民まで不安に陥れる、また結束を乱す不穏な要素となるわけです。
この領主家門と領民の結束についてはまた後ほど書きましょう。
朝の豆、昼の豆、夜の豆
台所でそのスープがどのように保存され、どの鍋でどう作られていたのかまでは、私は知りません。
私は領主の娘でしたが、台所に頻繁に顔を出す立場ではありませんでした。 台所は、現代の家庭の台所のような場所ではありません。
砦の台所は、大きな仕組みです。
大鍋、薪火、煮えた湯、刃物、肉や魚、パン、豆、野菜、水桶、保存食、配膳。
召使いたちは朝から晩まで動き、兵士や家臣、職人、領主家族、来客の分まで食事を回していました。今の言葉でいえば、給食センターに近いものだったと思います。
だから、領主の娘がふらっと入る場所ではありません。
危ないですし、邪魔にもなります。 煮えた湯、沢山の火、大きな刃物もあります。
人が急いで動いている場所に、裾の長い服を着た娘が入り込むべきではありません。私は台所そのものより、食卓に届いたものを知っていました。
その記憶でいうなら、朝の豆スープはかなり薄かったと思います。身体を起こし、祈りと座学へ向かう前に、空腹を避けるための食べ物です。
昼や夜になると、同じようなスープでも、もう少し味が深くなっていたように思います。
野菜、油脂、時には肉や魚の旨み、台所で出たもの、香草の追加、塩の調整。
鍋の中で味が馴染んでいくので、昼や夜の方がスープは美味しい。豆を除けば、ですが。
汁は美味しくなり、香りも馴染む。 温かさもありがたいものです。
しかし、豆がいます。白く大きな豆は、どれだけ汁がよくなっても、口の中でざらっと、むにょっと崩れます。
私はその食感がとにかく好きではありませんでした。
でも生きるために、これらの材料を生産した領民、料理にした領民の労働を拒むことは、主のみこころに反することです。
砦の台所は、給食センター型である
砦の台所は、領主家族だけのために繊細な料理を作る場所ではありませんでした。そこは、砦にいる多くの人間を食べさせる場所です。
領主家族、家臣、騎士、兵士、近習、職人、召使、馬丁、犬係、来客、時には傭兵や旅の者。
それらを毎日食べさせるための台所です。ですから、食材そのものは大きくは変わりません。
豆、パン、野菜、香草、チーズ、薄めたワイン。肉や魚がある日には、それも同じ食料配管の中に入ります。
もちろん、領主家族には一番よい部分が回されます。
よい部位、よいパン、よい器、少し手をかけた仕上げ、温かいうちの配膳。
香草や油脂の足し方も、兵士たちのものより少し整えられていたでしょう。けれど、それは別世界の食事ではありません。
全体としては、砦の者たちは似たようなものを食べています。 違うのは、質と仕上げです。
同じ豆でも、領主家族には少し整えられた形で出ます。同じパンでも、よりよいものを。同じスープでも、少し味が調えられます。それでも、豆は豆です。
領主の娘であっても、砦の食料事情から完全に切り離されていたわけではありませんでした。
兵士たちは、豆だけで生きていたわけではない
ここで誤解してはいけないのは、砦の兵士たちが八割豆で腹を膨らませていた、ということではありません。
兵士たちの肉体は砦の資本です。
門を守る、夜警に立つ、訓練する、遠征する、馬や武具を扱う、荷を運ぶ、寒さにも暑さにも耐える。
その身体を、豆だけで維持することはできません。肉や魚の量だけでいうなら、むしろ兵士たちの方が多く食べていたはずです。
もちろん毎日の材料には上限があります。しかし、兵士には量と栄養が必要です。
豆、パン、穀物で腹を支え、そこに肉や魚、チーズ、エールが加わります。
エールもまた、ただの余暇の酒ではありません。水分であり、カロリーであり、食事の一部であり、男所帯の秩序維持でもあり、労働と警備の燃料でもあります。
甘いものより酒の方がしっかりある。
それは、この砦が、兵と馬と犬と職人で回る辺境砦だったからです。
同じ豆を食う共同体
給食センターのような大きな台所から出てくる豆のスープが、特別に美味しいわけではありません。けれど、それは私だけが食べているものではありませんでした。
父も、騎士も、兵士も、職人も、召使たちも、同じ砦の食料事情の中で食べています。領主家族にはよい部分が回され、仕上げも少し整えられます。
兵士たちには、身体を動かすために量や肉やエールが必要です。
けれど根っこには、同じ畑、同じ倉、同じ台所、同じ冬越しがあります。だから、豆が好きではなかったとしても、それを恥ずかしい食べ物だとは思っていませんでした。
同じ砦にいる者たちが、同じ豆を食べている。 そう思えば、悪いことではありません。美味しいかどうかは、また別の話ですが。
この感覚を忘れると、中世の領主と領民の関係は、ただの支配と被支配としてしか見えなくなります。もちろん、領民を虐げる家門もあります。 暴力も、搾取も、飢えもありました。そこを美化するつもりはありません。
けれど、よく機能している領主家においては、領主はただ上にいる人ではありません。
領主は、防衛を担い、倉を守り、道を維持し、教会とつながり、職人を抱え、祝祭を行い、飢饉や戦の時には配分と判断を行う存在です。
領主家が崩れれば、領地全体の生活が揺らぎます。
だから領主は大事にされます。それは身分が高いからだけではなく、その家が土地の生活を支える要石だったからでもあります。
砦の豆は美味しくない。しかし、砦の共同体を支えているのです。なんとも腹立たしいことに、豆は偉いのです。
菓子は祝祭の日の食べ物である
甘いものも、まったくなかったわけではありません。果物や干した果実は、季節や保存の都合に合わせて出ることがありました。 果物を煮たものもありました。
けれど、小麦粉を使って生地を作り、中に甘いものを包み、油で揚げるようなお菓子は、日常の食べ物ではありません。
月に一度あるかないか。あるいは、特別な来客がある時。祝祭の日。何かのお祝いの日。
そういう日に出る食べ物だったと思います。
記憶にあるのは、薄いパイ生地のようなもので三角に包まれ、油で揚げてある菓子です。
中には、果物を煮詰めたもの、あるいは甘い乳製品のようなものが入っていました。 現代の言葉でいえば、ジャムやクリームに近いものと言いたくなりますが、正確な名前は分かりません。
外側は揚げられて軽く、噛むと中から甘いものが出てきます。それは、豆のスープとはまったく別の、祝祭の味でした。
しかし、祝宴でお菓子が出るからといって、私が好きなだけ食べられるわけではありません。
お姫様なのだから、菓子を山ほど抱えて食べていたのではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
砦の祝宴で出る甘い菓子は、余るほど過剰に作られるものではありませんでした。
小麦粉も、油も、蜂蜜も、果物を煮たものも、乳も、燃料も、人手も、どれも大切なものです。菓子は祝祭のために作られるものであって、誰かが好きなだけ食べるためのものではありません。
私には、私の分が与えられます。 そしてそれを、乳母や侍女と少しずつ分け合っていただきます。甘いものは貴重です。 だからこそ、ひと口がうれしい。
三角に包まれた揚げ菓子を少し割り、乳母に渡し、侍女にも渡します。皆で少しずつ食べるのです。
それが、砦の祝祭の甘さでした。
クッキーのような日常菓子はない
甘いものといっても、現代のように、クッキーのような焼き菓子が日常的にあった記憶はありません。
果物や干した果実、果物を煮詰めたもののような甘みはあります。一方で、小麦粉を使い、油や甘味を加えて焼いた、つまんで食べるような菓子の記憶は薄いと感じます。
その中間がないのです。
甘いものは、果物の側にあるか、あるいは特別な日の揚げ菓子として現れます。砦での私にとって、お菓子とは、日常にあるものではありませんでした。
お菓子。 ああ、それはお祝いごとの日に食べられるものですね。
そういう感覚です。
三角に包まれ、油で揚げられ、中に甘い果物や乳のようなものが入っている菓子。それは祝祭の味でした。今日は特別な日なのだ、と口が知るための食べ物でした。
婚家へ行くと、食事は美味しくなる
私は15歳で嫁ぎました。婚家は、司教座に近い豊かな内陸の田園領主家だったように感じています。砦とは違い、穀物経済が太く、台所に余裕があり、日常に出せる食べ物の幅も違いました。
婚家へ行くと、当然ながら食事は美味しくなりました。
豆から逃げられるわけではありませんが、けれど、豆の扱いが違うのです。
砦での豆は、煮られ、潰され、香草と野菜の中に入れられ、身体を保つために食べるものでした。
病気の時には、潰した豆とパンを合わせた粥のようなものが出された記憶があります。それは食欲を出すための食べ物というより、死なないための療養食でした。
けれど婚家では、豆にも手間暇がかかっていました。煮たものをさらに潰し、裏ごしし、口当たりを整える。 同じ豆であっても、食べやすく、身体に入れやすい形へ変えられているのです。
これは驚きでした。豆にまで、ここまで手をかけられる家なのだ、と。それは、菓子が多いこと以上に、婚家の豊かさを示していたのかもしれません。
つわりと産褥の食べ物
私は15歳で嫁ぎ、23歳で亡くなるまでに、三人の子を産んだ感覚があります。単純に数えれば、およそ二年半ごとに子を産んでいたことになります。
若い身体であったこと、婚家が内陸の比較的穏やかな土地にあったこと、それももちろん関係していたのだと思います。
けれど、それだけではありません。
妊娠中、つわりの時、産褥の回復期。食べられない時に、食べられる形へ食べ物を変えてもらうこと。温かく、柔らかく、匂いがきつすぎず、身体に入るものを用意してもらうこと。
それは、私の身体を支えるうえで、とても大きかったはずです。食べ物が、私の身体に合わせて変えられていく。それは単なる贅沢ではありません。
妊娠し、産み、回復し、また日常へ戻される女性の身体を支えるための、家政の力だったのだと思います。
女性が子を産むということは、本人の身体だけで成立していたのではありません。
食べ物、火、燃料、湯、寝具、乳母、侍女、台所、義母の采配、婚家の余力。
それらがあって初めて、妊娠した身体は支えられる。
婚家で私が三人の子を産めた背景には、そのような女性インフラと家政の厚みがあったのだと思います。
婚家の菓子は、余剰の言語だった
婚家では、日常的にちょっとつまむ菓子がありました。これは、砦育ちの私には衝撃でした。砦での私にとって、小麦粉を使った甘い菓子は、来客や祝祭の日にようやく出るものです。
ところが婚家では、菓子が当たり前のように出てくる。
どうぞ、とすすめられる。私は内心で、そんな高価なものを何でもない日にいただいてよろしいのですか、と思っていました。
砦の三角揚げ菓子のような素朴なものも、婚家では形が洗練されていました。 三角に包まれていたものが、葉巻のようにすっと筒状に巻かれている。今の言葉でいえば、ヨックモックの太いもののようだ、とでも言えばよいでしょうか。
しかも婚家では、それだけではありません。 蜂蜜やナッツ、薄い層を重ねた菓子など、私の砦にはなかった甘味の文明があったように思います。今思えば、アラブ系の菓子文化に近いものも混じっていたのかもしれません。
砦の菓子は、祝祭の合図でした。
婚家の菓子は、余剰の言語でした。
小麦粉、卵、乳、蜂蜜、果物、香料、油、火、人手。
それらを日常の社交や歓待のために使える家なのだ、と菓子が語っていました。
それは衝撃的なことでした。
それでも、私は菓子を日常食にできなかった
婚家で菓子をすすめられても、私はそれを日常のものとして気軽にいただくことが、なかなかできませんでした。砦での私にとって、菓子とは祝祭の日に出るものです。
小麦粉、油、蜂蜜、果物を煮たもの、乳、卵、燃料、台所の人手。 それらを使って作られるものです。そんな高価で手間のかかるものを、何でもない日にいただいてよいのか。そう思ってしまうのです。
ですから私は、菓子をすすめられても、乳母や侍女に渡し、皆で分け合おうとした記憶があります。
まだ少女であったにもかかわらず、菓子を見ると、甘さより先に、その手間暇と価値が見えてしまったのだと思います。
一方で、果物はわりあい素直に喜んで食べていました。
果物は季節の恵みであり、菓子のように何工程もの手間を経た贅沢品とは、私の中で別の棚に入っていたのです。
貴婦人は、ものの値段を知っている
当時の貴婦人とは、ただ美しい衣を着て、祈り、刺繍をし、詩を暗誦するだけの存在ではありません。貴婦人は、家の内側から領地経営を支える者でした。
蝋燭一本の値段、小麦の値段、ワイン樽の減り、薪の量、布の再利用、使用人の食事、来客時にどれだけ台所へ負荷がかかるか。
そうしたものを、地位の高い女性ほど当たり前に把握していたはずです。だから、婚家で日常的に菓子が出された時、私はただ「おいしい」とは受け取れませんでした。
その菓子の向こうに、小麦粉、蜂蜜、乳、卵、果物、燃料、人手、台所の余裕が見えてしまうのです。
それは貧乏性ではなく、砦で育った貴婦人の家政感覚でした。
食べ物から文明を見る
食べ物は、単なる食べ物ではありません。
豆は、生存です。
パンは、基礎です。
酒は、兵站と結束です。
果物は、季節です。
揚げ菓子は、祝祭です。
婚家の菓子は、余剰と文化資本です。
妊娠中の療養食は、女性の身体を支える家政インフラです。
砦と婚家では、食べ物の意味が違いました。
砦は、質素で、切り詰めていて、しかし共同体全体を食わせるための大きな台所がありました。 婚家は、豊かで、余剰があり、個々の身体に合わせて食べ物を整える力がありました。
どちらも貴族の食卓です。けれど、その性格はまったく違います。12世紀の私の食卓は、華やかな宮廷料理の記憶ではありません。
豆のスープ。
パン。
チーズ。
薄めたワイン。
エール。
干し果実。
祝祭の日の三角揚げ菓子。
婚家で恐る恐る受け取った日常の菓子。
つわりの時に食べやすく整えてもらった裏ごしの食べ物。
そこにあるのは、生活です。
そして、HPO-12として私が残しておきたいのは、その生活の匂いなのです。
これは、前世の証明ではありません。 私が凄いと語るための文章でもありません。 女性がただ不幸だったと説明するための文章でもありません。
一人の女性の身体と日常を通して、人類がどのように食べ、祈り、産み、支え、配分し、文明を運用していたのか。
その断片を、未来に送るための記録です。そして最後に、これだけは書いておきます。
豆は好きではありませんでした。けれど、豆は砦を支えていました。なんとも腹立たしいことに、豆は偉いのです。
そして、現代においても私は豆が嫌いです。そら豆と大豆以外の豆が全部とにかく苦手なのです。

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