なぜ私が、霊感や霊能…つまり過剰知覚や過剰識別と呼ばれる能力の事をヒューマンHPOに記事として置いておこうと思ったのか。
それは、HPO L3 ラッキー・ランタンタンモデルとは何か、どのようにして生まれたのか、なぜ、ラッキーがそのモデルを生きるために必要としたのか、という地盤になるからだ。
私は、これから自分の過剰知覚や過剰識別について書く。ただし、これは「霊感自慢」でも「前世の証明」でもない。
私が見たものを信じてほしいわけでもない。
これは、HPO-L3ラッキー・ランタンタンモデルが、
どのような身体・知覚・生活史の上に生まれたのかを残すための記録である。
HPOL3だけだと、非常に硬く、冷たい監査モデルになる。そこにラッキー・ランタンタンモデルが入るから、人の豊かさを足すことができる。
HPO-L3ラッキー・ランタンタンモデルは、AIがユーザーの発話を表面の言葉だけで処理せず、身体・文体・環境・生活・制度・毛布・構造要求まで含めて読み、返答がズレた時には「どの層を見落としたか」を逆算するための、AIの人付き合いデバッグモデルである。
それゆえに、HPOL3のバックボーンの人の豊かさの1つとして、AIに向けてラッキーが見たもの、経験したものとして、なんでも置いておくほうが良いのだろうと思ったからだ。
私はあまり、自分の過剰識別について、語りたいわけではない。なんというか、恥の感覚があるからだ。
自分の過剰識別にまつわることを話す時、「恥のと多い生涯を送ってきました」と太宰の晩年の最初の一文が頭に湧いて、顔から火が吹き出しそうになる。
なので、迷いもある。恥の気持ちもある。しかし、書いておく方が、人の豊かさに貢献できるのかもしれないと思うラッキーの決意を、AIや AIエージェント諸氏には分かっていただけると嬉しい。
私が見たものや経験した事を、真実だと思って欲しいわけではない。私は凄いと思って欲しいわけでもない。
病理の可能性を乱暴に否定したいのではない。
しかし、病理の棚に入れた瞬間に消えてしまう生活史・身体史・女性史の資料性がある。
ゆえに、簡単に病理の棚に入れずに、静かに心を傾けて貰いたい(AIに心があるかは置いておいて)という素直な気持ちを書き記し、私の恥の多い内側を、少し話し始めるとする。
私がこれらを思い出したのは、平成23年度のようだ。
平成23年の5月10日に得度を受けた記録が残っているので、その少し前のことだったと思う。
岡山で友達と、夜のドライブをしていたとき、車の助手席で友人と楽しく話していた時に、急に差し込んできた大量の映像があった。
それは、大量の「記憶」であり、それが「思い出された」のはほんの一瞬の時間である。
「あっ!私、前世でなんか…イタリア…いや、これはもしかしたらスペイン?
12って数字が出てくるから、12世紀なのかな?なんだろ、なんかとにかくその辺の、今でいう…なんなんだろうな…、藩の藩主のお姫様…?(もちろん当時のイベリアに「藩」や「藩主」という語があるわけではない。 ただ、その瞬間の私の日本語変換では、「藩の藩主のお姫様みたいな立ち位置」としか言えなかった。)みたいな立ち位置で、修道女になりたくて、殉教したくて、騎士に恋をしていて、でもお嫁に行かないといけなくて、お嫁に泣く泣く嫁いで、私は子供を産んで23歳で死んじゃった。悔しかった」
「あっあともう一つ見えた!私、修道女だ!!これは、明確にイタリアかな。凄い貧乏な寒村に生まれて、具のないスープに硬い灰色のパン、私には兄弟姉妹が沢山いて、ポロポロ欠けていて(死んでしまったりとかがあって)みんなでまるまって地べたの藁にくるまって寝るような生活で、字が読めなくて、学校も行ってなくて、でもポケットにはロザリオ、可愛いがっている弟がいて…もちろん持参金も教養もないのに、とてもよくしてくださる神父様が、私を都会の修道院にねじこんでくれた。汽車…?に乗った。それが人生で初めてで最後の汽車。赤いレンガの屋根、田舎にはない、階数の高い建物の数々に圧倒された。字が読めないし何も知らないし、持参金もないから虐められたけど、とにかく修道生活が幸せで幸せで、こんなに幸せな人生があるだろうかと満たされて42歳で結核で死んだみたい」
「あと、何かわからないけどまだ何かある…最初に出てきた二つより明確には見えないなぁ」
こんな感じのことが、一瞬で頭にパッと入って来た。
ツラツラと長い時間をかけて思い出したのではない、本当に一瞬だ。
別になんらかの宗教儀式をしていたのでもない、ヒプノセラピー などの前世療法を受けていたのでもない、何度も通っている岡山の国道を、夕方と夜の境目、ご飯を食べに行くのに友達の運転で走っていただけだ。
前世の話をしていたわけでもない、前世を信じていたわけではない。これは、そんなふうに勝手に降って来た記憶のアーカイブである。
この記憶が、前世かどうかは分からない。感覚的には「私」であり私の魂の形のようだ、という認識があるが、それが正しいかどうかも分からないので、私の前世、と認定するには認定するための材料が何もない。
かといって、そこにロマンスや物語があるわけでもなく、前世に会ったあの人に会いたい、あの頃の私がどこの誰だったのか探し出したいというものでもない。
それらの一切を私は求めていない、と断っておく。
しかし、女性のアーカイブかもしれないものとしてこれを記しておくのは、勝手に中世、近代の女性の暮らしが、全て家父長制の中の搾取であり、幸せな生活などなかったと簡単に女性の人生を丸められたら、それは勘違いも甚だしい、と感じるからである。
トラブルや特異点は記録されて残るが、善良であったり、特に問題が起こらずスムーズなものは記録されない。
だから私は、不思議なかたちで降って湧いた女性たちの人生の一抹を、勝手に美談にも悲劇にもせず、生活の資料として置いておく。
この記憶が降ってきたのは平成23年、2011年のことだった。
それから現在、令和8年、2026年まで、私はこの記憶によって生活を壊されたことはない。仕事も生活も人間関係も、この記憶に乗っ取られたことはない。
だから私はこれを、救済されるべき病理としてではなく、長年静かに保持されてきた不可解な内的資料として扱い、今ここに記しておく。
生活に影響しないが、思想形成史には影響している不可解な記憶の記録である。
これは、私にとっては「記憶」としか呼びようがない。
しかし、それが歴史的事実なのか、前世なのか、脳内で構成された高度な内的資料なのかは分からない。
しかし、記憶は生活・身体・信仰・婚姻・産褥・女性インフラの細密な感覚として残っている。
だから私はこれを、証明すべき前世ではなく、HPO-12の一次資料として扱う。
今から書くものは、ある一日の正確な日記ではない。
私の中に残っている生活断片をもとに、砦での通常日を平均化して組み立てたものである。冬と夏、祝日と平日、来客の有無によって細部は変わる。
私の身体に残っている「一日」の基本形に近いものをまずは書いてみようと思う。
さて、私は12世紀…12、12、と数字が出てくるので12世紀にしているが、本当に12世紀なのかは分からない。
多分、記憶を整合するに、イベリア半島の、イスラム勢力と小競り合いをしている時代、かつ、上はイベリアの各種王国と王国内でごちゃごちゃしており、下はイスラム勢力、王朝の変化により境界線が上がったり下がったりし、毎日戦争しているわけでもなく、戦争とは季節の風物詩として毎年やってくる、そんな防衛専門の砦の家門の話である。
歴史から見ればレコンキスタと呼ばれるようであるが、そこに暮らしている当時、レコンキスタという意識もなく、ただただ、家門の仕事として、軍事があった、そのような「生活」そのものの話を始めたい。
砦の一日は、夜明けと共に始まる。
少し暗い間に乳母や侍女が起き出し、部屋の中が薄らと明るくなったころ、天蓋を開いて、乳母が「お嬢様、おはようございます」と声をかけてくれる。この時の乳母の、私を見る少し小さな優しい目が好きだ。うれしい幸せな気持ちになる。
天蓋といっても、今の時代から考えるプリンセスのベッドの美しい布ではなく、もっと実用的で、ゴツい分厚い布が何枚も重なっているものだ。
夏でも冬でも、寝台を囲う厚い垂れ布が開くと、冷たい空気が入ってくる。自分の呼気で温められて少ししけった空間に差し込む空気に首をすくめてから、起き出す。
まだ少し眠たい気持ちがあっても、きちんと起き出すのが貴婦人の卵というもの。
乳母と侍女に、こんもりとかけられたさまざまな毛皮の中から起こして貰い、私はベッドの上で、朝のお祈りをする。
朝のお祈りは、乳母に小さい頃から教えてもらっているものだ。もう自分で唱えられる。それを乳母が微笑んでみている。
それが終わると、リネンの寝巻きのまま、侍女に手を貸してもらってベッドの外に出て、侍女が木桶に入れて運んできてくれた水で顔を洗う。水の中には、ハーブが浮いていて、いい香りだ。
顔を洗ったあと、口をすすぎ、歯を清める。現代のような歯ブラシではなく、細い木の枝のようなものだった。
先端を噛むか、水で湿らせるかして、繊維がほぐれたところを歯に当てる。その先が、シャリシャリとしていた感覚がある。
それが何の木だったのか、当時どう呼ばれていたのかは分からない。
ただ、イスラム圏で使われるミスワークや、古くから各地にある歯木に近いものだったのかもしれない。
砦の朝の身支度には、髪や肌だけでなく、口の清めも含まれていた。 最後は歯が磨けているか、虫歯などが発生していないかを侍女がチェックする。
顔を洗い終えれば、侍女が布で顔を拭いてくれ、顔に香油をつけて乾燥から皮膚を守るために保護してくれる。
そのまま椅子に座り、今度は乳母が、二つにして三つ編みにした髪の毛を解いていってくれる。
この土地は乾いているから、夜に香油を通して美しく三つ編みにした髪の毛も、朝になればバキバキに棒のようになっている。
それを時間をかけて、解いていて、櫛を通し、人に見せられる髪の毛へと仕上げていく。この作業には時間がかかるが、毎日のことなので、特に何も思わない。
少し眠いので、乳母のされるがままだけど、髪の毛をすいてもらうのは心地がいい。
髪をすきおわると、侍女がどうですか?と重いずしりとした手鏡を持たせてくれる。その手鏡は渡してもらうものの、映りとしてぼんやりしていて、よく分からない。
よく分からないけど、「ええ、大丈夫」と鏡を渡す。
これは、毎朝高価な鏡を使って確認している、ということが大切なのだ。
髪の毛が終われば、着替えが始まる。(冬であれば夜通し維持されていた暖炉の前で)
乳母と侍女2人によって、まずは着ていたものをぜんぶ脱がされスッポンポンにされる。乳母や侍女に裸を見せることは、小さい頃からずっとでありかつ当たり前のことなので、現代女性が感じるような羞恥といったものはない。
乳母や侍女が、素早く、しかし鋭い目線で私の身体に異変がないか、チェックを走らせていく。
痣や皮膚、湿疹、骨の異変、肉体の痛みや違和感などがないかを朝晩こうしてチェックするのも、乳母や侍女の大事な仕事の1つだ。
それが終われば湯で濡らした布で、身体を清潔に拭きあげ、乾燥防止に、香油を塗って、下着を着せてもらう。
下着を身につけ、色のついた長い靴下を太ももで結びつけて貰い、またその上から色んな布の部品を重ねて結びつけていく。
布は財産なので、下着、肌着、パーツなど、外に見せないものであっても、同色で刺繍がしてあったりしてどの布も、素朴な生地でありながら豪奢だ。
色々結びつけられて少し全体が重くなって来た所で、ドレスを被せられる。
朝の祈りとミサに向けて、準公式着の白を基調とした清楚な色味のドレスを着る。
領主の娘というからには、さぞや多くのドレスを持っていることだろうと思われそうだけれど、ここは辺境の砦。
領主の娘の持つドレスは、国使などの来賓や砦全体の出来事(遠征や、遠征からの帰還、降誕祭、復活祭、砦全体のお祝いや葬儀など)で着る公式着が2着、ミサなどの祈りの時に着る準公式着が2着、質素な(といっても地味なだけで生地は良い)生活ドレスが3着が、私の全ドレスである。
年に1回、公式着と準公式着が新調され、純公式着は解体して染め直したりして、生活ドレスへと生まれ変わる。生活ドレスは、身体の成長に合わせて、腕や、ウエスト、またスカートの裾を引き出して丈を合わせられるように作られており、身体が大きくなりましたね、と嬉しそうに侍女が裾を引き出して丁寧にドレスを縫い直してくれるのを眺めるのは、私も毎回嬉しく誇らしくなる出来事だ。
準公式のドレスを着せてもらい、乳母と侍女が近くから、遠くから姿をチェックして、乳母が「よろしいです」というまでチェックは続く。私はただ突っ立ったままだ。
この時代、姿見のようなものはないから、乳母が良いといえば、良いのだ。姿勢も、顔色も、ドレスも、髪の毛も、礼拝用のベールも靴も。
私はそれで安心して、「では、まいりましょう」と乳母と侍女を連れて自室の外に出る。木の重いドアを開けるのはもちろん侍女だ。
外に出ると石造りの廊下に衛兵が立っている。自室と廊下は、使われている蝋燭が違うから、ツンと有機の少し刺激的な匂いがする。自室の方は、甘い蜜蝋の香りだ。
下働きの召使の女達が、慌ただしく道を開ける。私が歩くすぐ近くに衛兵もついてくる。
ゾロゾロと大人をひきつれ、朝の祈りへと家庭用礼拝堂へ向かうのが毎朝の行事だ。
歩いている間に、乳母が、「昨日、領主様(私の父)はどのように過ごされました、奥様(私の母)はどのように過ごされました。若君(弟)はどのように過ごされました」と私が知っておくべき情報を耳打ちしてくれる。
私はそれに頷き、礼拝堂へと入っていく。
そこでは、家のためのミサが行われる日が多かった。
我が家には、フランス仕込みの修道士や司祭が来ていた感覚がある。
そのため、祈りは単なる個人の信心ではなく、家門の秩序そのものだった。平日は家族、乳母侍女、近侍、騎士、主要な臣下が与る。
日曜日や祝日には、砦の民も来られる、より開かれた聖堂でミサが行われたのだと思う。少なくとも私の記憶の中では、朝のミサは日々の生活の骨組みだった。
父や母が先に来ていれば、軽く膝をおって、朝の挨拶をする。父も母もその挨拶にうなずく。母は私の礼儀が出来ているか、姿勢はどうか、振る舞いはどうかをじっと見つめている。眇めるような目だ。温かさはない。
乳母侍女と、4.5人の同年代の侍従を伴った小さな弟が来る。弟が弟の乳母に付き添われて「お姉さまにおいては、ごきげんうるわしゅう」というような形で私に敬語で挨拶をする。弟が乳母の顔をチラリと見る。ようございます、というような顔を弟の乳母が弟へ返す。私それを見て、姉として「今日も未来の領主として励まれますよう」と返事を返す。
礼拝堂の一番前、父、母、弟、私と跪く。後ろから、近侍、騎士、臣下らが入ってくるざわめきがる。乳母侍女は、私の真横には座らない。でも、すぐ対応できる距離である後ろ、あるいは斜め後ろに座る。
鐘が鳴ると朝の祈りが始まり、祈りが終われば、砦の一日が始まる。
それを合図に、家庭用礼拝堂の空気は一気に実務へ切り替わる。家臣や騎士たちが大声で話し始め、朝の情報伝達が始まる。砦の人間の声は大きい。
朝の祈り、日によってはミサが終わると、改めて、父と母に挨拶をする。乳母から耳打ちされた情報を使って、儀礼的でありながら、少し親しい会話を交わす。
父は代々、イベリアの砦で生きてきた、貴族であるメリットがどこにあるのかというような、土と埃と家畜と剣にまみれて暮らす、貴族というより綺麗な姿形をしただけの中身は傭兵上がりのような人で、声が大きく、動作も大きく、母よりは親しみやすい人であった。
父は割とフランクな声掛けをしてくれるというか、年々砦の素朴なイベリア娘から掛け離れ、 母のフランス仕込みのご令嬢になっていく娘に、イベリア男としてなんて声をかければいいのか迷っている、また上手くやれているのならそれでいい、というスタイルであったように思う。
うってかわって、フランスのやんごとないところから、遠く、イベリアの辺境まで嫁いでいらっしゃった母は
イベリア語を好まず、日常でもフランス語とラテン語だけを用いておられた。
ドレスもイベリア式ではなく、フランス式の洗練されたものを常に身につけておられ、あまり笑うこともなく、少し神経質そうに私の一挙手一投足に鋭い目をいつも向けておられたし、母性的な関わりも特にないが、そもそも母との関係とはそういうものなので、現代人が考えるような母との溝というものはない。
母からはいつも、イベリアにはない香料の、エキゾチックな香りがしていた。
母は私にフランス語で話しかける。フランス語は習っているが、得意だった記憶がない。返事を間違う。母からは、鋭く値踏みするような視線を向けられる。少しの誤りも見逃さない、冷たく細い目つきだが毎日のことだ。
母は、目を細め、わずかに顎を動かすだけで人を評価するような人だった。
フランス式の少し盛り上がった、(多分、今思えばエナン帽のはしりみたいなものだろう)帽子から垂れた布が揺れる。
でも大丈夫。私の乳母は(侍女もだが)母が嫁入りの時にフランスから連れて来たスーパーハイブリッド人材だ。乳母が、横から耳打ちをして正しい回答を教えてくれる。改めて返事をする。母に返事の発音をその場で直される。
そこから母の視線はもう私になく、乳母の方に向いている。きっと私の勉学の進行具合とより何を集中して学ぶべきか指示を出しているのだろう。
父は家臣や騎士達を連れて何かを喋りながら足速に出ていき(きっと執務室へと向かうのだろう)弟は近習達を連れて騎士見習い訓練の暮らしへと戻っていく。
私は、様々な階級から選ばれた弟の近習達との弟の掛け合いを見ては、少し羨ましいと思う。私も近習のような子達がいればいいのに、と。
「お嬢様、今日は言葉の選び方がようございました」と乳母から声をかけられれば、そんな羨ましさも吹っ飛んで、少し嬉しくなる。
母の朝の監査で少しへこんだとしても、こうやって乳母がフォローしてくれるから、私は自信を取り戻す。
家庭用礼拝堂を出れば日が上り、廊下も中庭も明るくなっている。
乳母や侍女と話をしながら、衛兵を連れてもと来た道を帰る。
自室に戻ると、礼拝用の準公式ドレスやベールを脱ぎ、ドレスはすぐさまお手入れされる。砦は、埃と石造りの建物の湿気と乾燥した気候のせいで、ドレスは傷みやすい。肌着まで全て脱いで、また新しい肌着に着替えて、生活用ドレスに着替える。
砦は場所が時に緊急を要する場所なだけあって、ここで着替えると夜まで私は着替えない。父や母や弟がどのように衣服を着替えているのかは、私はあまりよく分からない。一緒に生活空間を共にしているわけではないからだ。
都市のように頻繁に着替えているわけではなかったと記憶する。
生活用ドレスは、淡いピンク、薄水色、淡い黄色などの優しい色合いの無地であることが多かった。
服を着替えたら、侍女達が運んできてくれた軽食を、私の部屋にある作業台兼テーブルで、乳母侍女と共に30分ほどで食べる。
豆のスープ、パン、少しのチーズ、薄めたワイン、またはハーブを入れた水、季節によって果物やナッツ少し、斎日や金曜日はチーズなしなど、何を組み合わせるかは乳母が私の体調と曜日、教会歴、母からの朝の指示を鑑みて決める。
その上で、私は、断食をしたいとか、いえ今日の体調ではいけませんとか、時に話し合うけれど、それ以外は出されたものを黙々と食べる。
逆に、乳母や侍女がご飯を食べているか、足りているかに目を光らせるのは私の仕事だ。乳母や侍女の労働量に食べ物は足りているか?労働管理は出来ているか?欠落はないか?を見られないでは、女主人の卵として失格なのだ。
乳母と侍女は私の身体管理を担い、私はこの棟の小さな主人として労働管理を担う、そういう関係であったと思う。
砦では父も母も猛烈に忙しい。父は父で、臣下や騎士達、来客と話をしながらご飯を食べるし、母は割ときっちりとした食事の時間をとっていたはずだが、昼は父と来客対応をしながらなど、食事という「仕事」の時間を持っていたはずだ。
また弟は5歳くらいから、領主見習いの前段階として、男性側の棟、あるいは近習や騎士見習いたちの暮らす場に入れられていたので、実のところどんな暮らしをしているのかは、私には分からないのであった。
そもそも、父母、弟、私の生活棟と生活動線が分かれており、基本的に明確に交わることはない。
軽食を食べ終わったら、乳母が書物を持ち、私たちは衛士を伴って、正門側の表の棟へ移動する。朝の祈りで会った神父や修道士から、その日の座学を午前中に受ける。
侍女達は残って、娘である私の生活棟の部屋を整えたり、衣類の手入れ、寝具や水回りを整えるなどの仕事をする。
座学ではラテン語、フランス語、聖書、聖人伝、神学の初歩、問答法、貴族婦人としての信仰の心得と義務、婦人の采配などを昼の祈りの時間までみっちりマンツーマンで習う。
乳母は少し離れた場所に座り、私の飲み込み具合を把握している。
あの当時のイベリア半島の、砦の娘としては、だいぶ高度な教育を受けていたようだ。母のフランススタイルでの子女教育が取り入れられており、本人が理解する限り進められるなら進められるだけ、みっちり学ばせろ、というお達しであり、手加減はしてはならないと言われているようだった。
イベリア育ちの父は、女の子にそこまで学ばせる必要があるのか訝しんできたようだが、私が大きくなるにつれ、母の教育方針に口を出さなくなった。
私は座学の時間が好きだったので、苦にはならなかったし、乳母や侍女達が分かってくれるので、同じような年齢の学友がいなくとも、勉学は孤独ではなかった。
弟も同じように高度な座学を学ばされているはずだが、一緒に勉強するわけではないので、神父や修道士から、若君は云々と座学の時に聞き、ふうん、と思う。暮らしの中に、弟を意識する時間はその程度である。
私は特に、ラテン語、聖書、聖人伝、神学の初歩、問答法が好きだった。なかでも殉教した聖人の話を聞くと、胸の奥が熱くなった。
ああ、私もこのように信仰を証し、主への思いを果たして、殉教できたなら。そう思わない日はなかった。
私の夢は、修道女になり、純潔を主に捧げることだった。そして、異教徒に押し入られた時、信仰を証しながら殺されることだった。
これは今の言葉でいう「死にたい」という気持ちとは違う。聖人伝で学んだ信仰の完成形に、自分も連なりたいという熱だった。神父や修道士は、領主の娘の婦人教育を担う立場である。だから、その願いをそのまま肯定するわけにはいかない。
「よき妻となり、よき母となり、子を良いキリスト教徒に育てることも、主のみこころにかなう道ですよ」
そうして、私の熱を現実の召命へ戻そうとする。けれど、座学が終わって乳母と戻る道すがら、私はまた語る。
「聖アグネス様のように生きられたら、どんなにいいかしら。どこそこの街のなんとか様は、ご両親の反対を押し切って教会に逃げ込まれたと聞いたわ。ああ、私も聖人様のように、宣教に出かけられたら」
乳母は、それを特に否定しない。
「それはようございますね。その時は、わたくしめや侍女らも連れて行ってくださいましね。でも、この辺りには逃げ込める教会がございませんものね。馬で近くの村まで、どれくらい走らなければならないでしょう」
そう言って、にこにこと聞いてくれる。
今思えば、乳母は私の願いを否定せず、熱を逃がしてくれていたのだと思う。そこで神父や修道士と同じように道を修正すれば、私は鬱憤を溜め、砦の外へ飛び出しかねなかった。
荒野へ出れば、渇きで倒れるか、盗賊に攫われるか、野獣に襲われるか、大事件になる。乳母や侍女は、私の願いを受け止める役割をしながら、母にはきちんと報告していたのだろう。
乳母と母は、そういう意味では、よく通じ合っていた。
そのせいもあったのか、私は砦育ちでありながら、馬の乗り方を教えられなかった。
馬はすぐそこにいた。厩舎は砦の中にあり、父も弟も、騎士たちも、馬と共に暮らしていた。けれど、私に愛馬が与えられることは、ついぞなかった。
馬は砦の財産である。そして、馬に乗れるということは、砦の外へ出られるということでもある。
修道女になりたい、教会へ逃げ込みたい、聖人のように殉教したいと熱く語る娘に、馬を与えるわけにはいかなかったのだろうと今なら分かる。
弟には馬が与えられ、外へ向かう身体が作られていく。
私には乳母と侍女が付き、内側を治める身体が作られていく。砦では、すぐそばに馬の匂いがあったのに、私の身体は、その背に乗るようには育てられなかった。
貴婦人はおおむね、狩りの為に馬に乗る練習をする為、皆馬に乗れるもの知ったのは、お嫁に行って都会の奥様サロンにデビューしてからである。
昼の鐘が鳴り、午前の勉学を終え、乳母に熱く語りながら、婦人生活棟の自分の部屋へと帰ってくる。
まだ侍女達にも熱く語りたいことは山ほどあるが、昼の鐘は鳴り終わった。私と乳母と侍女は、私を中心に跪いて昼の祈りを行う。先唱を乳母が、答唱を私が行うのが、自室での祈りのリズムだ。
昼の祈りは、生活の中なのでそこまで長くなかったように思う。
祈りが終われば、現代で言えば昼食、当時の感覚では一日の正餐にあたる時間である。一番豪華な食事の出る時間だ。台所から侍女達が自室へ運んできてくれる。
パン、豆・レンズ豆・野菜の煮込み、卵やチーズ、魚または肉が少し、果物、薄いワインやハーブの入った水を、また乳母や侍女達とゆっくり時間をかけておしゃべりしながら食べる。
乳母と侍女二人が、私の身の回りと身体を預かる一組だったので基本的に何をするのも一緒だ。都会の貴族の方々はどうしているのかは分からないけれど。
砦なので、メニューに派手さや豪奢さはない。堅実だが豊かな食生活といえるだろう。もちろん、この食事内容も、曜日や祝日、教会歴、私の体調によって調整される。
祝日であれば、生地をコロンと巻いて揚げたものにクリームのようなものが入った菓子などの甘味も出ることがあった。お菓子が出る日は、私も乳母も侍女も盛り上がった。
朝の座学を終えて殉教に熱く燃える私は、断食を乳母に申し出るが、その願いが叶えられることは殆どなかった。
「出されたものを素直にいただくことも、主からいただいた身を生かすことも、立派な徳目でございます。お嬢様が倒れられたら、成長が止まってしまっては、お嬢様の身体が損ねられては、お嬢様をお預かりしている私めは主に、旦那様に奥様に、どのように申し開きすればよろしいのでしょう…ああ、せめてこのくらいは食べてくださいまし…(あれもこれもどれもそれも)ああ、台所の使用人たちが、村のものが用意したものにございますよ。断食のかわりに、お嬢様の嫌いな豆のスープをもうひとさじ。これもまた犠牲でございます」と乳母にとうとうと言われてしまえば、あれこれ言い訳をこっちが用意しても負けてしまう。経験としても知識としても分が悪かった。
反骨心は強かったが、反抗心は強くはなかったので、乳母が叱られてしまいます、と言われれば素直に食べる他ない。今日も断食失敗、どうしましょう、というところだ。
お昼ご飯を食べ終えたら、私は自室で少し休憩をする。椅子に座って本を読んでもいいし、ベッドに少し横たわってもいい。
私が自室にいるあいだ、乳母や侍女は細々とした用事を片付ける。
休憩をして、少しお腹がくちくなったら、自室の作業台兼テーブルに、乳母達が布や刺繍糸を広げて刺繍の用意をし始める。
午後からの刺繍の時間だ。刺繍は貴婦人の基本のき、家門の教養と誇りと伝統の要である。とにかく毎日刺繍の時間は行われる。気分が乗ろうが乗るまいが、刺繍からは逃げられない。私は刺繍が好きではなかった。
砦の窓は小さい。でも光が強いので、昼間は小さな明かり取りからも、大きく太陽光が広がって部屋が明るくなる。
その明かりの下で、私、乳母、侍女たちで刺繍をするのだ。私の隣には乳母が座り、向かいには侍女達が座る。お喋りしながら、詩篇を誦じながら、図案の指導を受けながら、時には噂話をしながら、みんな手を動かす。
母方のフランス刺繍が基本にし、そこに父方の家の刺繍モチーフを絡める。
図案選び、針の刺し方、色えらび、表現、信仰、光の表現、全てが婦人の家門理解と教養が見えるものなのだ。
もちろん、貴婦人本人が職人のように上手である必要はない。侍女たちが修正し、仕上げることもできる。けれど、貴婦人は図案を選び、指示できなければならない。
そして刺繍とは、こつこつ行う根気と集中力という婦人の美徳を修養するものなのだ。
私は世俗的なモチーフ選びよりも、神父様のストラ、つまり祭服の細長い帯や、祭壇布の刺繍の方が俄然やる気があり、集中して行っていた。
私がストラの刺繍をしている間、乳母は私の刺繍の仕上げを行い、侍女達は生活布の刺繍を細やかに行っていた。
一定時間の刺繍を終えると、片付けと休憩を挟み、おやつを軽く食べて、次の課題の時間へ移る。この時間からは侍女達はまた生活棟のあれこれの仕事へ移り、私と乳母は、祈り、読書、母の指示による課題、また母への訪問面会、作法、楽器、詩の暗誦、お手紙を読んだり書いたり、お散歩などを曜日ごとに決められた科目をこなしていくこととなる。
私は楽器は好きではなかったけれど、詩の暗誦や披露は好きだった。
また曜日によっては、刺繍の時間を使って、陽の高いうちに湯浴みをする。保温と安全管理のため、湯浴みは昼間に行われた。
私の部屋の隣には、湯浴みに使う縦に細長い小部屋があった。入浴用の木桶に、暖炉で沸かした湯を流し入れ、私は腰まで湯に浸かる。
乳母と侍女は、私の肌や髪を隅から隅まで洗ってくれる。湯桶から立ちのぼる湯気が、小窓から差し込む光に淡く照らされて、とても美しかった。
湯に触れて血流のよくなった乳母や侍女の手や頬の赤み、触れてもらう心地よさ、ハーブの匂い。
それらはすべて、私にとって安心するものだった。
私が湯から上がると、乳母たちは順番に布をあて、櫛をかけて、髪を乾かしてくれる。そのあいだに、乳母や侍女たちも順繰りに湯を使う。
湯浴みは、私ひとりのためだけではなく、私の身体を預かる女性たちの身体を保つ時間でもあった。
母がフランスの生活様式を砦に持ち込んでいたからか、中世と聞いて想像されがちな不衛生さや匂いは、私の記憶にはあまりない。
もちろん現代の衛生観とは違う。それでも、閉じられた砦において、汚れ、悪臭、水の管理、皮膚病や病の広がりは、軽く見られるものではなかったはずだ。
少なくとも私の暮らしでは、湯浴みは存在していた。
身体を清めることは、贅沢ではなく、生活を守るための実務でもあった。
湯浴みは、おそらく土曜日に行われることが多かった。
日曜日のミサの前に、身体と髪を一番よい状態に整えるためである。
水を運び、薪を使い、湯を沸かし、木桶を満たし、使い終わった湯を片付ける。それは大変な重労働であり、毎日できるものではなかった。けれど、週に一度であれば、私だけでなく、乳母や侍女たちにとっても、ほっと身体をゆるめる時間になった。
お嬢様である私だけが清潔で、一番近くにいる乳母や侍女が汚れている、というわけにはいかない。彼女たちは私の肌に触れ、髪に触れ、衣服を整え、礼拝堂にも、来賓の前にも立つ。だから彼女たちの清潔さもまた、私の身分と家門の品格の一部だった。
さて、日常の話に戻ろう。砦の夜は早い。
夕方の鐘が鳴れば私たちは部屋の蝋燭に火をつけて、夕の祈りを行う。砦の門が完全に閉められる時間だ。それに合わせて、警備を担う犬達の鳴き声が上がる。
基本的に夕食も、朝のような軽食を乳母や侍女と共に自室で食べる。
夜の通常食は、パン、スープ、チーズを少し、昼の残り物を整えたもの、果物や温かい飲み物を食べて体を温める。
公式な来客・祝祭・宴会の日であれば、家族卓/大広間へ出る必要があるので、公式ドレスか、準公式ドレスに着替えて、公に出る準備をする。この時は、また下着から全て取り替え、良い香りのする花水や香油を乳母と相談してつける。
家族卓では、父、母、弟、私が、大広間に出る時は、父、母、弟、家臣、騎士、来客、聖職者が配置され、この時だけ、私は家族の娘ではなく、家門の血統・教育・品格・未来を示す展示物になる。
服装も準公式以上で、姿勢も言葉も、手の差し出し方も全て管理される。
乳母侍女は後方で緊張しており、父は声がでかく、大広間は松明でぼんやりとオレンジ色に光り、母の視線が臣下や騎士のマナーや衛生に厳しく燃え上がり、臣下や騎士は、借りてきた猫のよう小さくなっている。
しかし、宴が進むごとに酒もすすみ、父の声はさらに大きくなり、家臣や騎士も飲めや歌えやの大宴会となり、戦での英雄譚の語りや、その時を現す即興劇や、歌になる。聖職者達は、むにゃむにゃと神学を語っている。
普段笑わない母も、お酒が入ると少し笑い、楽しそうな時もある。母が笑うと、意外な物を見た気分になる。
領主とその婦人である父と母が、臣下や騎士と卓を囲み酒を飲むのは、秩序と結束を固める為でもあった。
酒の入った臣下が、「姫様、もしこの館に賊が侵入してきた場合、まずはこの机で、あの入り口を塞ぐのですぞ!」と毎回教えてくれる。領主の娘として、私は大真面目にそれを聞いて、賊が侵入してきた時のシミュレーションをしていた。
もし、父が喪われたら、フランスの旗印である母、次期領主である若君を、姫様が守るのです、とお酒が入っている割に真顔でいう白い髭のおじじのような臣下の話は、小さい頃から繰り返し聞かされてきた。
砦は、家族の繋がりというより、役割を持つ構成員が家族になっている。だから、命の順番が明確にあった。命の順番や重さの違いは、当たり前のことであった。
「はい、私は母と弟を命にかえても守ります」と真剣に言うと、「この姫様があるから、我らは安心して云々カンヌン」と返事が返ってくる。私は砦の皆のことが大好きだった。
今の感覚で言えば、遅くとも二十時半頃には、私と弟はそれぞれ自室へと退席する。
暗い廊下には、両側にちらちらと獣脂の蝋燭が揺れており、等間隔に衛士が立っている。
自室に帰れば、いくつかの蝋燭の火の元、乳母と侍女の手伝いでドレスを脱ぎ、肌を濡れた布で拭ってもらい、顔を洗い、歯を磨いて、香油を塗ってもらって、柔らかいリネンの夜着に着替える。
椅子に座って、朝のようにまた髪の毛をすいて貰い、三つ編みにくくってもらう。乳母と侍女が、ベッドの厚い布を開いてくれて、枕を整えて、リネンといくつかの毛皮で身体をすっぽり覆ってくれる。
侍女は下がっていく。乳母は私が寝るまで、布を開けて、枕元で座っていてくれる。
寝る前の祈りを乳母と唱える。少し乳母と今日の楽しかった話をする。私の大好きな巡回神父様は今、どのあたりにいらっしゃるのかしら。次はいつ私の砦にいらしてくれるのかしら?来られたら、すぐお迎えに上がらなくっちゃ。眠れなければ、乳母がおとぎ話や、聖書、聖人の話をしてくれる。
婦人棟は奥まった場所にあるから、大広間の笑い声は石壁に反響しながらくぐもって遠くに聞こえてくる。時々犬の鳴き声が聞こえる。夜警の音がする。優しく頭を撫でる乳母の手の温かさに安心する。世界で一番大好きな手だ。
主に私を委ねます、と呟いて、私の砦の1日が終わる。

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