日本のフェミニズムは、なぜ「批判」から「配管」へ降りられなかったのか

母性・自立・国家・主体性を反復横跳びした先に

私は今日一日、ある床板に鼻を押しつけていた。

フンスフンス。

ここから、何か匂う。

日本のフェミニズムは、女性が受ける差別や支配を批判する言葉を大量に持っている。

母性主義。
家父長制。
性別役割分業。
国家による生殖管理。
医療権力。
優生思想。
性の商品化。
被害者への自己責任論。
マイノリティの排除。

どれも、現実に存在する問題である。

ところが、女性が今夜困っている時に使える設備の話になると、急に薄くなる。

ピルを飲み忘れた時、誰に相談するのか。
緊急避妊薬へどう接続するのか。
中絶や流産の後、身体と生活を誰が支えるのか。
月経用品を一か月分受け取れる場所はどこか。
婦人科へ行くべき症状か、一緒に整理してくれる人はいるか。
思春期から更年期、老年期まで、女性の身体を継続して支える地域施設はあるか。

女性について論じた言葉は多い。

しかし、女性が入れる建物がない。

なぜなのか。

私は、この不思議な空白の一因として、日本のフェミニズムが長く続けてきたぐにょぐにょ反復横跳びを考えている。

これは歴史学上の因果を確定する論文ではない。

2014年頃から緊急避妊薬へのアクセスを求める活動に関わり、左翼・リベラル・フェミニズム圏と付き合い、その後も占い師として生身の女性の相談を聞いてきた、市井の女による配管仮説である。

母性を守るのか、女性を母性から解放するのか

友人である柴田英里の書いたフェミニズムと性をめぐる論争史を読んだ。

フェミニズムと性の論争
「行動/表現」フェミニズムにおける規範・メディア・制度

そこでは第一波の母性保護論争、廃娼運動、堕胎罪から、第二波のウーマン・リブとピル要求、第三波の「保護か主体性か」、第四波の告発政治まで、性をめぐる内部対立が一本の時間軸に置かれている。 

1918年から1919年の母性保護論争では、妊娠・出産・育児期の女性を国家が保護すべきだとする平塚らいてうと、女性個人の経済的自立を重視する与謝野晶子が対立した。母性保護論争については、当時の資料や後世の研究が多数残されている。 

この対立は、現在まで姿を変えて残っている。

妊娠や出産を社会が支援すべきだと言えば、

女性を母性へ囲い込むのか。

という警報が鳴る。

女性の経済的自立を重視すれば、

身体負担を女性個人へ背負わせるのか。

という警報が鳴る。

どちらの警報にも理由はある。

しかし、本来必要なのは二択ではない。

母性を女性の使命にしない。
それでも妊娠・出産によって発生する身体的、経済的負担は公共が支える。

これを制度にすればよい。

ところが制度にするには、対象、費用、給付、医療、休業、相談、責任主体を決めなければならない。

決めれば、必ず不完全になる。

そこで再び批判が始まり、設計図が作業台から降りなくなる。

女性を保護するのか、主体として扱うのか

女性を保護すると言えば、

女性を無力な被害者として扱うな。

と批判される。

女性の主体性を尊重すると言えば、

被害や困窮を自己責任化するな。

と批判される。

これも本来は両立する。

女性が主体的に選べるように、知識、物資、医療、避難路、相談先を用意する。

主体性とは、何もない荒野で一人で決める能力ではない。

選択肢が現実に手の届く場所へ置かれていることだ。

生理用品を選べる棚。
夜間でもつながる相談先。
必要な時に買える薬。
婦人科へ行くための費用。
暴力から逃げた後に眠れる部屋。

しかし「保護」と「主体性」を対立項として反復横跳びしていると、どちらへ進んでも内部批判を受ける。

その結果、

当事者の声を尊重しましょう。

という安全な地点で止まりやすい。

尊重された当事者は、その後どこへ行けばよいのか。

国家に介入させないのか、国家に仕事をさせるのか

女性の生殖に国家が介入してきた歴史を考えれば、国家権力への警戒は必要である。

妊娠、出産、中絶、不妊、障害、人口政策は、国家による管理と切り離せない。

だから、

国家は女性の身体を管理するな。

という主張は正しい。

しかし、そこで止まれば、

国家は女性が選べる条件を整えよ。
薬を承認せよ。
費用を下げよ。
医療格差を是正せよ。
地域に相談施設を作れ。

という積極的義務まで弱くなる。

国家が退場しても、女性の身体が自由になるとは限らない。

代わりに、

  • 家族
  • 男性パートナー
  • 医師
  • 市場価格
  • 居住地域
  • 勤務先

への依存が残る。

国家権力を恐れて公共設備を作らなければ、無権力になるのではない。

既存の私的権力へ女性を預けることになる。

ここにも反復横跳びがある。

国家管理は嫌だ。
しかし国家予算は必要だ。
行政による線引きは危険だ。
しかし全国どこでも使える制度は必要だ。

この矛盾は、理念を唱えていても解けない。

管理と保障を分け、権利と人口政策を分け、支援と強制を分ける設計が必要になる。

道徳を変えるのか、女性へ今すぐ権利を渡すのか

日本の廃娼運動では、婦人矯風会や救世軍などのキリスト教団体が大きな役割を担った。国立国会図書館の展示資料にも、自由廃業を支援する法的活動や保護施設の設置とともに、廃娼派の強い道徳的言説が記録されている。 

女性の人権擁護と、性を正しくする道徳改革。

この二つは、日本の女性運動のかなり早い段階から接着していた。

それは現代にも残っているように見える。

避妊の話をすると、

男性に責任を取らせるべきだ。

という話になる。

ピルを女性へ渡そうとすると、

男性に都合のよい女性を作るのか。

という話になる。

緊急避妊薬を薬局で買えるようにしようとすると、

男性の無責任を許すことになる。

という話になる。

しかし、男性の責任を問うことと、女性へ薬を渡すことは競合しない。

男の性倫理を変えることと、今夜の排卵へ対応することも競合しない。

それでも議論はしばしば、女性の身体から男女関係の道徳へ曲がる。

私は緊急避妊薬へのアクセスを求める活動の中で、この曲がり角を何度も見た。

私たちが要求していたのは単純だった。

薬を出してほしい。
値段を下げてほしい。
時間内に届くようにしてほしい。
道徳審査を挟まないでほしい。
本人に決めさせてほしい。

しかし議論は、男性責任、望ましい性関係、女性の尊厳、優生思想、自己責任へ膨らんでいった。

その間も排卵は止まらない。

女の身体時間を、男の更生待ちに人質として差し出してはならない。

反差別と反権力は、どの論争からも逃げ込める安全地帯だった

母性保護か、個人の自立か。

保護か、主体性か。

国家介入か、反国家か。

道徳改革か、権利保障か。

どちらへ進んでも批判される。

そこで共通して採用しやすかったのが、

  • 差別に反対する
  • 権力を監視する
  • 排除を批判する
  • 当事者の声を尊重する
  • 国家管理を警戒する

という立場だったのではないか。

これはすべて必要である。

しかし、これらは設計条件であって、設計図ではない。

差別するな。
排除するな。
管理するな。
当事者を尊重せよ。

ここまで決めても、

  • 施設をどこに置くか
  • 誰を雇うか
  • 何時まで開けるか
  • 何を無料にするか
  • 医療へどう紹介するか
  • 誤った対応があった時に誰が責任を負うか

は決まらない。

反差別は、建築基準である。

それだけでは建物は立たない。

「野党の仕事は代案ではなく監視だ」という政治文化

この問題は、フェミニズムだけに閉じていないと思う。

日本の左翼・リベラル圏では、「批判するなら代案を出せ」という要求に対して、

野党の仕事は代案を出すことではない。
権力を監視し、問題を明らかにすることだ。

という応答がしばしば現れる。

監視は、もちろん野党の重要な仕事である。

だが、政権交代を目指す政党なら、監視だけでは足りない。

自分たちが政権を持った時に、

  • 何を優先するのか
  • 予算をどう配るのか
  • どの法律を変えるのか
  • どの行政組織を使うのか
  • 失敗をどう修正するのか

を示さなければ、代替政府には見えない。

権力を批判する能力と、権力を預かった時に壊さず運用する能力は別である。

そして日本の左翼文化の一部には、後者を「体制への取り込み」「妥協」「管理への加担」として嫌う傾向があったのではないか。

制度を作るとは、汚れることである。

対象を決める。
線を引く。
予算を配る。
優先順位を付ける。
不完全な状態で始める。

批判者は、そのすべてを批判できる。

自分が設計側へ回れば、自分も不完全さの責任を負わなければならない。

そのため、

批判する側は清潔で、運用する側は汚れている。

という奇妙な分業が生まれる。

この政治文化がフェミニズムへ流れ込めば、権力分析や差別批判は発達しても、薬局、診療所、相談室、給付制度、支援施設の設計は「別の誰かの仕事」になる。

問題は、別の誰かへ渡す接続管すら細いことである。

全員が代案を出す必要はない

ここで誤解してほしくない。

被害を告発する人へ、

文句を言うなら完全な政策案まで作れ。

と要求するのは乱暴である。

研究者一人一人が、施設の営業時間や人員配置まで書く必要もない。

批判には、批判だけで成立する役割がある。

問題は、個人ではなく領域全体の変換回路である。

運動、学問、論壇、政党が何十年も存在し、社会へ影響を与え、「女性のため」「弱者のため」と語るなら、どこかに、

批判

代替案

試行

運用

評価

修正

の回路がなければならない。

批判から実装へ翻訳する人。
制度を比較する人。
日本の地域行政へ移植する人。
小規模に試す人。
失敗を調べて直す人。

そうした人々を生まないまま、

私たちの役割は監視です。

と言い続ければ、監査報告書だけが山積みになり、壊れた蛇口は壊れたままである。

女性について説明する言葉はある。女性が入れる建物がない

私が求めているのは、批判をやめることではない。

批判の次の工程を作ることである。

たとえば、女性生涯包括支援センター。

月経、避妊、性の健康、妊娠、中絶、流産、出産、更年期、婦人科疾患、骨盤底、骨の健康、老年期までを、女性の生涯としてつなぐ地域施設。

病気になってから行く病院だけではない。

生理用品を選べる。
ピルについて相談できる。
婦人科へ行く前に質問を整理できる。
受診後に説明を一緒に読み直せる。
妊娠したい人も、したくない人も使える。
流産や中絶の後にも入れる。
必要なら医療、福祉、法律、暴力被害支援へつながる。

これは母性主義ではない。

女性を生殖だけへ還元する施設でもない。

女性の身体に発生している負担へ、公共が応答する設備である。

反差別は、その施設が誰かを排除しないための設計条件になる。

反権力は、その施設が女性を監視・強制しないための監査装置になる。

主体性は、女性が自分で選ぶための原則になる。

保護は、選んだ後に身体と生活が壊れないための支えになる。

これらは二択ではない。

分けて設計し、接続すればよい。

完璧な正義を待たず、暫定配管を作る

日本のフェミニズムは、何をしてはいけないかを精密に言葉にしてきた。

その蓄積は捨てる必要がない。

しかし、何を作るかを決める時には、批判とは別の知性が要る。

暫定的に決める。
小さく始める。
使った女性の声を聞く。
問題があれば直す。
排除が発生したら入口を増やす。
混線したら窓口を分ける。

完全な制度ができるまで待つのではない。

批判しながら作り、作ったものをまた批判して直す。

監査か、設計か。

反権力か、公共保障か。

保護か、主体性か。

どちらか一方へ飛び続ける必要はない。

反復横跳びをやめ、配管を一本ずつ接続すればよい。

女性の身体は、論争が終わるまで待ってくれない。

排卵する。
出血する。
妊娠する。
流産する。
痛む。
老いる。

思想が完全になるより先に、蛇口が必要である。

反差別は設計条件であって、設計図ではない。

そして、監査は政治の終点ではない。

そこから先に、建物を立てる仕事がある。

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