部落差別の終わりを観測する
部落フェミニズムがやるべきこととは
正しさに包摂されてしまわないために
部落差別は、まだなくなっていない。
身元調査をする家は残っている。
部落の地名を探す人もいる。
名字を調べる人もいる。
YouTubeでは、「日本のディープスラム」などと称して、旧同和地区を訪ね、隣保館、青年会館、改良住宅を目印に撮影し、地域を晒すようなコンテンツも作られている。
それは、今でも心底ぞっとする。
しかし同時に、部落差別は、明らかに弱まっている。
少なくとも、私が十五年以上、人の相談を聞いてきたなかでは、そう見える。
十五年ほど前には、
「部落出身だから破談にされた」
「親から、相手が部落だから別れろと言われた」
「娘のお見合い相手を調べたら、そういう土地の方だった」
という相談が、ときどきあった。
大量ではない。
しかし、ちょろちょろと現れた。
私はそのたび、
お前の目の前にいる私も、その「そういう方」なんやぞ。
と思いながら、話を聞いていた。
けれど最近は、本当に聞かなくなった。
毎年、連続して出会わない。
相談内容のなかに、部落差別が出てこない。
婚姻数そのものが減ったこともあるだろう。
差別意識が強かった世代が、高齢化し、亡くなり始めたこともあるだろう。
地域社会が薄れたこともある。
さまざまな要因が重なっている。
それでも、
部落出身だから結婚できない。
という問題へ、日常的に遭遇する確率が大きく下がったことは、否定しにくい。
部落差別は、終わってはいない。
しかし、終わりかけている。
私は今、その終わりを観測している。
1.部落差別は、共同体の輪郭とともに薄れている
旧同和地区と呼ばれた地域は、少子高齢化している。
住民は減っている。
古い改良住宅は老朽化し、少しずつ壊されている。
青年会館、児童館、隣保館、共同浴場など、かつて地域の目印だった建物も、役割を変えたり、取り壊されたりしている。
そこへ新しい住宅が建ち、地域外から人が流入する。
土地が比較的安いから、若い家族が入ることもある。
かつては、
この建物があるから、この地域は部落だ。
と外部の人間が見分けたかもしれない。
けれど、その目印は、少しずつ消えている。
ディープスラム探訪をしたい人間が、古い地図を持って現地へ来ても、いずれ何も見つけられなくなる。
古い改良住宅がない。
隣保館の意味も分からない。
住民の多くは地域外から来ている。
本人も自分の出自を知らない。
知っていても、特別な意味を感じていない。
そこに残るのは、古地図上の境界だけになる。
部落という共同体が、生活単位として成り立たなくなり始めている。
これは、歴史の消滅でもある。
同時に、差別の消滅でもある。
2.部落が消えることを、私は悪いことだと思わない
部落出身者のなかには、部落の歴史や文化、共同体への誇りを語る人もいる。
それを否定するつもりはない。
しかし私は、
部落という境界は、そのまま消えていけばよい。
と思っている。
部落であることを誇らなくてもよい。
部落であることを恥じなくてもよい。
そもそも、気にしなくてもよい。
自分が部落出身だと知らなくてもよい。
知ったところで、
へえ、そうなんや。
で終わればよい。
部落差別の終わりとは、部落の歴史を忘れることではない。
部落であることが、誰の人生にも社会的な意味を持たなくなること。
それが、差別の終わりである。
結婚できるか。
就職できるか。
どこへ住めるか。
誰と家族になれるか。
それらに出自が関係しなくなる。
その時、部落は、差別される社会的集団としての役割を失う。
私は、それでよいと思っている。
3.「寝た子を起こすな」と「寝た子なんかいない」の先へ
部落問題では、長く、
寝た子を起こすな。
という言葉があった。
知らなければ差別は起きない。
だから、部落問題を教えない方がよい。
語らない方がよい。
それに対して、
寝た子なんかいない。
という応答があった。
差別は現に存在している。
黙れば消えるわけではない。
沈黙は差別を温存する。
だから教え、語り、告発しなければならない。
この論争には、それぞれの時代的な意味があった。
けれど今、私は思う。
もう、その二択だけでは足りない。
なぜなら、共同体の輪郭自体が薄れているからだ。
誰が「寝た子」なのか。
何を起こすのか。
そもそも、部落という家の形自体が、建て替わり始めている。
今問うべきなのは、
起こすか。
寝かせるか。
ではない。
差別が社会的現実として失効していく時、何を記録し、何を終わらせ、何を再生産しないのか。
である。
「まだある」と言い続けるだけでもない。
「もうない」と言い切るだけでもない。
終わりつつあるものを、終わりつつあるものとして観測する必要がある。
4.差別の消滅と、歴史の消滅は同じではない
部落という境界が消えることは、望ましい。
しかし、部落差別の歴史まで消えてよいわけではない。
ここは分けなければならない。
望ましい消滅とは、
- 婚姻差別が減る
- 就職差別が減る
- 地名に意味がなくなる
- 出自を気にしなくなる
- 若い世代が部落という分類を必要としなくなる
- 部落であることが人生を左右しなくなる
ことである。
一方、危うい消滅とは、
- なぜ改良住宅が建ったのか分からなくなる
- なぜ隣保館が必要だったのか分からなくなる
- なぜ識字運動があったのか分からなくなる
- 誰が差別し、誰が制度を作ったのか分からなくなる
- 改善事業の成果だけが残り、差別の責任が消える
- 部落女性の労働、婚姻、生殖、暴力の歴史が記録されないまま終わる
ことである。
必要なのは、
差別される集団としての部落は消えてよい。
しかし、なぜその集団が作られ、何が行われ、どのように解体されたのかは記録する。
という態度である。
差別を記憶することと、差別される共同体を永続させることは、同じではない。
5.部落フェミニズムが現れたのは、差別が弱まったからではないか
私は、部落フェミニズムが現れたこと自体を、差別の深刻化の証拠だとは思っていない。
むしろ、
部落女性が、自分の出自を語っても以前ほど怖くないかもしれない。
という空気が生まれたからではないかと思う。
以前、部落女性として名乗ることは、自分だけの問題ではなかった。
子どもの結婚。
きょうだいの就職。
親族関係。
夫側の家族。
地域での生活。
自分が名乗ることで、周囲へ影響が及ぶ可能性があった。
だから語らなかった。
それは、自己否定ではない。
合理的な生存戦略だった。
何も語らなかったのではない。
語れなかった。
語らない方が安全だった。
今、部落女性が自分の出自を語れるようになった。
それは、
部落に誇りを持てるようになった。
ということだけではない。
語っても、以前ほど人生が壊れないかもしれない。
という社会変化でもある。
私は、それをよいことだと思っている。
部落差別が忘れられ始めているからこそ、部落女性は語れる。
この逆説は、もっと丁寧に考えられてよい。
6.部落フェミニズムを「正しさ」へ包摂しない
ここで、部落フェミニズムには一つの危険がある。
部落女性の経験が語られると、すぐに、
- インターセクショナリティ
- 複合差別
- 当事者性
- 権力勾配
- マイノリティ女性
- 包摂
- 連帯
という、現代の正しい言葉へ回収される。
もちろん、それらの概念に意味がないわけではない。
しかし部落女性が語り始めた瞬間に、
これは交差性の事例です。
私たちは学びました。
より包摂的なフェミニズムを目指します。
と整理されると、また部落女性の語りが、聞き手の正しさを更新する教材になる。
部落女性が、研究機関やフェミニズムを、さらに正しくするための材料へ変えられる。
それでは困る。
部落フェミニズムは、正しいフェミニズムへ包摂されるためにあるのではない。
部落女性の傷を、新しい倫理教材として提供するためでもない。
部落フェミニズムが問うべきなのは、
なぜ部落女性は、これまで女性史の主語にならなかったのか。
なぜ既存研究が中心史を変えなかったのか。
なぜ語れなかった沈黙が、存在しなかったことにされたのか。
である。
「私たちも包摂します」ではない。
なぜ、これまで包摂しなかったのか。
その構造を調べてほしい。
である。
7.部落フェミニズムは、部落性を保存する運動でなくてよい
部落フェミニズムという言葉が生まれると、
部落女性としてのアイデンティティを大切にしよう。
部落女性の文化を残そう。
部落女性として誇りを持とう。
という方向へ進む可能性がある。
それを望む人がいてもよい。
しかし、それだけが部落フェミニズムではない。
私は、部落女性が部落女性でなくなっていくことも、解放だと思っている。
出自を知らない。
知らなくても困らない。
知っても、人生の中心にならない。
部落であることを、政治的・文化的な自己の核へ置かない。
そういう人が増えることも、差別が弱まった結果である。
だから部落フェミニズムは、
部落女性として生き続けよう。
と求めなくてよい。
むしろ、
部落女性であることを、人生の中心へ置かなくてもよい社会を作る。
ことを目指してよい。
アイデンティティを守る自由と、アイデンティティから降りる自由。
両方が必要である。
8.部落フェミニズムがやるべきこと
では、部落差別の終わりを観測する時代に、部落フェミニズムは何をするのか。
第一に、終わりつつあることを記録する
差別が減った。
婚姻差別の相談が消えた。
共同体が薄れた。
建物が壊された。
地域外の人が流入した。
若い世代が出自を知らなくなった。
これらは、すべて歴史的な変化である。
差別の存在だけでなく、
差別がどのように弱まり、失効したのか。
を記録しなければならない。
第二に、残っている差別の形態変化を追う
日常的な婚姻差別は減っても、
- ネット上の地名晒し
- 名字探し
- 部落地域の見世物化
- ディープスラム探訪
- 古い資料の再商品化
- 身元調査
は残る。
差別は、制度から娯楽へ移ることがある。
共同体への排除から、歴史的他者化のコンテンツへ変わることがある。
古い差別の減少と、新しい形態の出現を分けて見る必要がある。
第三に、部落女性の歴史を、当事者へ丸投げしない
差別が薄れたことで、ようやく語れる女性が増える。
すると研究者は、
今のうちに聞き取りたい。
消える前に記録したい。
と思うかもしれない。
しかし、部落女性の家族史や地域史は、研究資源ではない。
語らない権利。
匿名にする権利。
撤回する権利。
協力しない権利。
それらを守る必要がある。
だから、部落女性当事者のための返答マニュアルが必要になる。
第四に、研究されなかった側ではなく、研究しなかった側を調べる
部落女性の経験を、もっと集めるだけでは足りない。
- なぜ女性史に入らなかったのか
- なぜ部落史と女性史は別棚になったのか
- なぜ既存研究が引用されなかったのか
- なぜ総合的な歴史が更新されなかったのか
を、研究機関側が調べる必要がある。
第五に、部落女性を正しい主体へ作り替えない
誇りを持て。
声を上げろ。
歴史を学べ。
当事者として責任を持て。
そのように求めない。
部落女性は、歴史を背負わなくてもよい。
語らなくてもよい。
政治化しなくてもよい。
部落女性であることを忘れてもよい。
弱いままでもよい。
何も代表しなくてもよい。
部落フェミニズムは、
正しい部落女性を作る運動
になってはならない。
9.博物館が変わる時、時代の節目も変わっている
水平社博物館の展示が難しいと言われ始める。
部落差別だけでなく、アイヌ、LGBTなど、さまざまな差別を扱うようになる。
それは、単なるテーマ拡大ではない。
部落差別の固有史だけでは、現在の観客との接続が難しくなっているということでもある。
部落差別が、現在進行形の巨大な生活問題として伝わりにくくなった。
だから、差別一般、人権、複数の少数者の歴史を扱う場所へ変わる。
これは、部落差別が薄められたのだと批判することもできる。
同時に、
部落差別が単独で社会全体を貫く時代が終わりつつある。
という変化の表れでもある。
博物館は、差別が最も強い時代だけを保存する場所ではない。
差別が終わっていく過程も展示できる。
- 何が改善されたのか
- どの制度が効いたのか
- どの運動が役割を果たしたのか
- 何が残ったのか
- なぜ共同体が薄れたのか
- 何を終わったと判断できるのか
を記録する場所にもなれる。
10.部落差別の終わりを、誰かが告げなければならない
差別運動は、差別があると告げる言葉を持っている。
差別を否定する者へ反論する言葉も持っている。
被害を記録する方法も持っている。
しかし、
差別が終わりつつある時、何を言えばよいのか。
という言葉は、あまり持っていない。
差別が減ったと言えば、
差別を軽視するな。
と言われる。
部落が消えてよいと言えば、
歴史を抹消するのか。
と言われる。
忘れられることを肯定すれば、
寝た子を起こすな論に戻るのか。
と言われる。
しかし、もうその二択ではない。
部落差別がなくなるとは、
部落の歴史を消すことではない。
部落という分類が、誰の人生も支配しなくなることである。
共同体が薄れることを、すべて文化の喪失として悲しまなくてよい。
差別のために作られた境界が消えることは、解放でもある。
そのことを、誰かが言わなければならない。
結び
部落フェミニズムは、差別の終わり方を考える
部落フェミニズムは、部落女性の被害を可視化するだけの運動ではない。
部落女性の誇りを作る運動だけでもない。
部落女性を、新しい正しい主体へ包摂する運動でもない。
部落差別が弱まり、共同体が薄れ、出自が人生を左右しなくなる時、
何を記録するか。
何を終わらせるか。
何を手放すか。
何を再生産しないか。
を考える運動でもある。
部落差別は、まだなくなっていない。
けれど、なくなり始めている。
その変化を、否定せず、誇張せず、観測する。
終わりつつある差別を、永遠に現在進行形のものとして保存しない。
同時に、終わりつつあるからといって、歴史を消さない。
人間へ部落性を背負わせない。
歴史から部落差別を消さない。
その両方をする。
部落フェミニズムがやるべきことは、部落女性を正しさへ包摂することではない。
部落女性が、部落女性として語ることも、語らないことも、忘れることも、覚えていることも選べる社会を作ること。
そしていつか、
部落女性という言葉を、必要としなくなること。
それもまた、部落フェミニズムの成功なのではないだろうか。

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