抑圧者を消しても、生殖確率は消えない
女性が極端に少ない世界を考えている。
きっかけは、ティーンズラブ小説『一妻多夫の淫らな世界で』だった。
この作品では、男性に比べて女性が非常に少ない。そのため一人の女性が複数の夫を持つ一妻多夫制が成立しており、女性は家の中心として大切にされている。
夫たちは妻を支える。
家事をする。
妻の身の回りを整える。
妻にふさわしい夫となるため教育を受ける。
性生活についてさえ、妻を満足させるための知識と技術を男性側が学ぶ。
女性は希少であり、家を継ぐ存在でもある。
だから女性は、私たちの社会とはかなり違う位置にいる。
それを読みながら私は、
「この社会をもう少し真面目に回してみよう」
と思った。
すると、あまり嬉しくないものが出てきた。
女性に権力を持たせても、女主人は産み続ける可能性がある。
しかも、その女主人に「産め」と命令する男が一人もいなくても、である。
女児が一人生まれれば、それで家は安泰なのか
たとえば、ある女家に一人の娘がいるとする。
彼女は成人して女主人となり、5人の夫を迎えた。
財産は彼女の家にある。
夫たちは彼女の家へ入る。
夫たちは家事や仕事を分担し、妊娠した妻を支える。
この社会では女性が少ないので、次の女主人となる娘を産むことには非常に大きな意味がある。
では第一子を妊娠した。
男児だった。
もちろん大切な子である。
しかし家を継ぐ娘ではない。
第二子。
また男児。
第三子。
男児。
第四子。
また男児。
さて。
誰が彼女に第五子を産ませるのだろう。
夫だろうか。
母親だろうか。
父親たちだろうか。
国家だろうか。
宗教だろうか。
私はここで、全部消してみた。
「産め」と命令する人間を全部消してみる
この世界では、女性の生殖自己決定権が完全に保障されているものとする。
夫には妻へ妊娠を強制する権利がない。
親にもない。
国家にもない。
宗教にもない。
「女なのだから産め」という社会規範も極力弱くしてみよう。
夫たちは善良である。
「もう産みたくないなら産まなくていい」
と言う。
母親も言う。
「あなたの身体が一番大切よ」
父親たちも言う。
「家のことなど気にしなくていい。お前が決めなさい」
では、出産圧はなくなるだろうか。
私は、必ずしもなくならないと思う。
なぜなら女主人自身が知っているからだ。
この家には、まだ娘がいない。
自分が産まなければ、次の女主人がいない。
そして、
次に妊娠すれば女児が生まれるという保証もない。
ここで、これまで「出産圧」を説明するときに探していた加害主体が消えてしまう。
誰も彼女を強制していない。
それでも彼女は、
「もう一人だけ」
と考えるかもしれない。
第五子を産んでも、女児とは限らない
人間の生殖には、厄介な特徴がある。
結果を先に指定できない。
現代なら出生前診断や生殖補助医療によって介入できる領域はあるが、ここでは科学技術が十分に発達していない世界を考える。
性交する。
妊娠する。
長い妊娠期間を過ごす。
出産する。
そこで初めて結果を得る。
欲しかった女児ではなく男児かもしれない。
ならば、もう一度。
しかし次も男児かもしれない。
さらにもう一度。
また男児かもしれない。
これは、言ってしまえば身体を賭け金にした確率試行である。
しかも、一回の試行に必要なのは数秒のボタン操作ではない。
一人の人間の身体を使って、何か月もかける。
妊娠中の身体変化がある。
出産がある。
産褥がある。
身体の回復が必要になる。
授乳するなら、さらに身体資源を使う。
そして次の試行へ移る。
一回ごとのコストが猛烈に大きい。
七人産んでも娘がいないことはある
仮に女児・男児の出生確率を単純化して半々とする。
7回出産して、7人とも男児になる確率は、
1/128、約0.78%。
低い。
しかしゼロではない。
1000人の女主人が同じことをすれば、単純モデルでは平均的には数人規模で遭遇しうる確率である。
そして重要なのは、統計的には珍しくても、その一人にとっては100%自分の人生として発生することだ。
「七人も産めば普通は一人くらい女児がいるでしょう」
は人口統計では言える。
しかし七人産んで全員男児だった女性に、
「統計的には珍しいんですよ」
と言っても身体は返ってこない。
彼女は七回妊娠した。
七回出産した。
七回産褥を経験した。
そして、それでも家を継ぐ娘はいない。
この非対称性は重い。
しかも「生まれた」で終わらない
『一妻多夫の淫らな世界で』の設定で私が特に面白いと思ったのが、女性が希少な世界なのに、乳幼児死亡率まで十分には克服されていないらしいことだった。
これを入れると、シミュレーションはさらに厳しくなる。
ようやく第五子で女児が生まれた。
家中が喜ぶ。
次代の女主人が生まれた。
しかし乳幼児死亡率が高い社会では、
出生=後継者確保
ではない。
成人するまで生きる必要がある。
女児が幼くして亡くなれば、女主人は再び選択の前に立つ。
もう一度妊娠するのか。
それとも自分の代で家を終えるのか。
ここでも、誰も命令しなくていい。
女主人自身が家を愛していればいるほど、むしろ葛藤は強くなる。
自己決定権があっても、選択肢のコストは同じではない
ここはかなり重要だと思う。
私は生殖自己決定権を非常に重要なものだと考えている。
しかし、
自己決定権が保障されていることと、選択が無圧力になることは同じではない。
女主人には、
「もう産まない」
という完全な権利がある。
しかし、その選択には、
「自分の家が途絶えるかもしれない」
という結果が伴う。
反対に、
「もう一人産む」
という選択には、
妊娠、出産、産褥という身体負荷が伴う。
どちらも自由に選べる。
しかし、どちらも無料ではない。
だから、
「本人が選んだのだから自由である」
だけでも説明しきれない。
自由とは、選択肢からコストが消える魔法ではないからだ。
ここでは「内面化された家父長制」という説明さえ使えない
現代の議論なら、
「女性自身が子どもを産みたがるのも、家父長制的価値観を内面化しているからではないか」
という説明が出てくることがある。
しかし今回の思考実験では、それもいったん封じることができる。
なぜなら母権社会だからだ。
家は女から女へ継がれる。
財産も女系にある。
夫たちは妻の家へ入る。
次代の女主人も娘である。
つまり女主人が娘を欲しがる理由は、
「夫の家を存続させるため」
ではない。
自分の家を存続させるためである。
ここで生殖圧をすべて「男性支配」に回収すると、説明が破綻する。
女性自身が権力主体だからだ。
それでも産み続ける合理性が発生する。
つまり、生殖をめぐる負荷には少なくとも、
権力によって作られる負荷
と、
生殖システムそのものから生じる負荷
がある。
この二つを分けなければならない。
抑圧者を消しても、生殖確率は消えない
私はここが、この思考実験で一番大切なところだと思っている。
夫を善人にした。
父親も善人にした。
母親も強制しない。
国家も口を出さない。
宗教も命令しない。
女性自身に財産と権力を与えた。
生殖自己決定権も完全に保障した。
それでも残るものがある。
妊娠には時間がかかる。
出産は身体を使う。
希望した子が生まれるとは限らない。
生まれた子が成人するとも限らない。
身体には妊娠可能な時間的限界がある。
これらには人格がない。
思想もない。
ミソジニーもない。
説得することもできない。
確率と身体である。
🪼「あなたが女性を抑圧しているのですか?」
確率:
「いいえ」
🪼「ではやめてもらえますか?」
確率:
「無理です」
なんとも腹立たしい。
「産め」と言う人間がいなくても、人口は再生産を要求する
さらに個人から共同体へ視点を広げると、もっと嫌な問題が出てくる。
女性が非常に少ない社会で、女性たちが平均一人しか子どもを産まなければ、人口構成によっては共同体を維持できない。
誰にも産む義務を課さなくてもいい。
国家が命令しなくてもいい。
しかし出生数が死亡数を下回り続ければ、人口は減る。
つまり、
人口再生産には、道徳とは独立した算術がある。
ここも、善意ではどうにもならない。
だから社会は歴史的に、生殖を完全な私事として放置しにくかったのだろう。
婚姻制度。
相続制度。
家制度。
嫡出。
扶養。
宗教的規範。
貞操規範。
出産奨励。
これらの中には女性を拘束し、傷つけてきたものが大量にある。
だから批判されて当然である。
しかし同時に、
社会がなぜ生殖へこれほど執拗に介入してきたのか
という問いまで捨ててはいけない。
次世代の生産が、共同体の存続そのものに関わるからである。
ここを「昔の人は女性差別的だった」で止めてしまうと、制度が処理しようとしていた問題まで見失う。
では、女性解放とは「産まなくていい」と言うことなのか
もちろん、それは重要である。
産みたくない女性には産まない自由がある。
家を継ぎたくないなら継がなくていい。
共同体の人口維持を個人の身体へ強制してはいけない。
しかし、それだけで問題が消滅するわけではない。
誰も産まなければ人口は減る。
娘がいなければ女家は途絶える。
社会がそれを受け入れるなら、それも一つの選択である。
しかし、
「自由を保障した結果として何が起きるか」まで考えることと、「自由を奪うこと」は別である。
私はここを混同したくない。
「人口が減るから女性に産ませろ」
にはならない。
同時に、
「女性に完全な自己決定権さえ与えれば、生殖をめぐる問題は解決する」
とも言わない。
どちらも現実を削りすぎている。
人間の身体を変えられるのは、思想ではなく技術かもしれない
では、この岩盤を本当に削れるものは何なのだろう。
ここで初めて、科学技術が出てくる。
確実な避妊。
安全な産科医療。
人工栄養。
生殖補助医療。
胚の選択をめぐる技術。
そして将来的には人工子宮。
もちろん、それぞれに巨大な倫理問題がある。
しかし少なくとも科学技術は、
「女性一人の身体で、一回ずつ妊娠して産むしかない」
という条件そのものへ介入できる可能性を持つ。
男性を教育しても妊娠期間は短くならない。
女性へ権力を与えても産褥はなくならない。
社会規範を変えても希望した性の子が必ず生まれるわけではない。
思想が届かないところへ、技術は届くことがある。
だから女性解放の歴史を考えるとき、私は政治思想だけでなく、
「身体条件をどこまで社会の外部へ移せたのか」
も同じくらい重要なのではないかと思っている。
女主人を追い詰めているのは、誰なのか
もう一度、最初の女主人へ戻ろう。
彼女には5人の夫がいる。
夫たちは彼女を愛している。
家事も育児もする。
財産は彼女にある。
誰も彼女に出産を強制しない。
四人の息子を産んだ。
娘はいない。
彼女は第五子を考えている。
そのとき、
誰が彼女を追い詰めているのだろう。
答えを、
「夫」
とだけすることはできない。
「家父長制」
とも言えない。
母権社会なのだから。
だから私は、ここで無理に悪人を作らない。
彼女を取り巻いているのは、
身体の有限性、時間、確率、死亡、そして彼女自身が大切にしている家の存続である。
それらが同時に存在している。
人間の問題には、ときどき、
誰かを善人にすれば解決するわけではない問題
がある。
生殖は、その代表的なものなのかもしれない。
だから私は、
「女性を解放するには誰を教育すればいいのか」
より先に、
「女性の身体に現在どの仕事が集中していて、そのうち何を他者・社会・技術へ移せるのか」
を考えたい。
悪人探しより、配管を見る。
思想より先に、身体を見る。
そして、どうしても動かせない岩盤に当たったら、
🪼⛏️
「なるほど。ここはまだ人類の技術待ちですね」
と印を付けて、次を掘る。
それくらいでいいと思っている。

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