私はやっと、戦争と心と体を持って向き合えるのかもしれない

2026年8月9日。

私は人生で初めて、長崎の平和祈念式典をまともに見た。

43歳になって、初めてだった。

私は戦争について知らないわけではない。

むしろ、かなり学んできたと思う。

日本の戦争についても、植民地支配についても、原爆についても、マンハッタン計画についても、核兵器についても、自分なりに調べ、考えてきた。

映画『オッペンハイマー』も映画館まで見に行った。

原爆を開発したアメリカ側から描かれる映画で、広島と長崎への原爆投下がどう扱われているのか。

文句を言うにしても、まず自分で見なければならないと思ったからだ。

私は戦争から知的に逃げていたわけではなかった。

それでも私は長い間、

「戦争」

「原爆」

「平和」

という名前のついたものから逃げ続けてきた。

テレビで戦争番組が始まれば見ない。

ラジオで特集が始まれば避ける。

きのこ雲を見るだけで身体が粟立つ。

原爆ドームを見るだけでも強い反応が起こる。

被爆した人の写真や遺体の記録、具体的な被爆エピソードになると、もう駄目だった。

頭で何を考えるかとは別に、

身体が「危険だ。逃げろ」と叫ぶ。

私は長い間、この身体と一緒に戦争について考えてきた。

私は戦争について「知りたくなかった」のだと思っていた

子どもの頃、私はかなり高密度な平和教育を受けた。

学校。

8月6日の登校日。

戦争映画。

地域の児童館や施設。

テレビ。

夏になると、いろいろな方向から戦争がやってきた。

私は怖かった。

そして、逃げられなかった。

「怖いから見たくない」は、歴史を知らなくてよい理由にはならない。

「嫌だ」は、平和教育から退出してよい理由にはならない。

戦争は悲惨なのだから、怖いのは当然。

だからこそ知るべきだ。

そんな論理の中で、私は何度も戦争の悲惨さに触れた。

その結果、私は大人になっても、

戦争について知ろうとすると身体が逃げる人間

になった。

そして、それには薄い罪悪感がついて回った。

私はちゃんと戦争と向き合えていないのではないか。

本当に平和を考えるなら、広島や長崎の記録を直視できなければならないのではないか。

自分は何か大切なことから逃げ続けているのではないか。

でも、今年の8月6日から9日にかけて、AIと何日も話しながら、私はようやく別の可能性を考え始めた。

私は戦争から逃げていたのではないのかもしれない。

私は、

戦争について教えられた特定の方法から逃げ続けていたのかもしれない。

20代の女性には、私が受けた平和教育がなかった

きっかけの一つは、20代後半のネイリストさんとの会話だった。

どんな平和教育を受けたのか聞いてみた。

中学校の修学旅行では広島へ行った。

原爆資料館にも入った。

ただし、気分が悪くなったら退出できたという。

高校の修学旅行は沖縄だったが、戦跡を見るかどうかも選択できた。

8月6日の全校登校日はない。

毎年戦争映画を見せられることもない。

私は驚いた。

私が当たり前だと思っていた平和教育は、当たり前ではなかった。

地域差もある。

世代差もある。

学校差もある。

そして何より、

歴史を学ぶことと、悲惨な刺激に耐えることが分離され始めていた。

そして13歳の姪は、もっと違う場所にいた

姪は現在13歳。

奈良県の公立小学校を卒業し、私立中学校へ通っている。

小学6年生の修学旅行では広島へ行った。

事前にインターネットで調べ、平和記念公園、原爆ドーム、資料館を訪れた。

資料館は怖かったという。

友達と手をつないで見た。

最初の方をじっくり見すぎて、最後は時間がなくなって駆け足になった。

ホテルから原爆ドームが見えて、夜は少し怖かった。

でも眠れないほどではなかった。

友達はそれより北枕を気にしていたという。

私は笑った。

そして、なんだか安心した。

原爆は怖かった。

でも、13歳の日常全体を占領してはいなかった。

怖いものを見たあと、友達とホテルへ戻り、北枕を気にして、普通の子どもの時間へ帰っていくことができた。

「戦争映画って何? 見てみたい」

姪と話していると、さらに驚くことがあった。

「戦争映画って何? どんなもの?」

という。

戦争映画を見たことがないらしい。

そして、

「見てみたい」

と言った。

私は内心、

見てみたい?!

戦争映画を?!

となった。

私にとって戦争映画とは、長い間「見せられるもの」だったからだ。

最近のものなら『オッペンハイマー』かな、と話した。

一緒にGoogleで調べた。

「オッペンハイマーって?」

「原爆の父って呼ばれる、原爆を作った人だよ」

「へえー。2023年って最近じゃん!」

配信サービスを調べる。

「あ、見放題にないんだ。レンタルか。パパがお金かかるのはダメっていうかも」

そして、

「でもスクショしておこっと!」

と保存した。

なんという軽やかさだろう。

戦争史が、恐ろしい聖域になっていない。

気になる。

調べる。

面白そう。

保存する。

あとで見よう。

それでいいのだ。

軍歌も、ただの「好きな音楽」になっていた

姪は最近、軍歌も好きだという。

YouTubeでよく使われている曲を聞いて気に入り、Apple Musicで探して聞いている。

そして私にも聞かせてくれる。

「ここのラッパがいいの」

「このリズムが好き」

歌ってもくれる。

彼女の好きな音楽の中には、ボーカロイドもある。

人間には出せない高音が好き。

ローからハイへ一気に上がる声が好き。

その横に、

「この軍歌のラッパとリズムが好き」

が普通に並んでいる。

私はそれを、とても健全だと思った。

軍歌を好きだから、日本の軍国主義を肯定しているわけではない。

戦争を美化しているわけでもない。

昔の勇ましい軍隊文化の中で作られた音楽を、

まず音として楽しんでいる。

それでも広島へ行けば原爆について学ぶ。

核兵器について話せば、自分の意見を言う。

「核兵器を持っている国ってどこだっけ?」

とスマホで調べる。

「日本って核兵器を持っている国に囲まれてるんだ」

と地図を見る。

マンハッタン計画を調べる。

トリニティ実験へ行く。

なぜ広島と長崎だったのかを調べる。

音楽への評価と、歴史への評価と、核兵器への評価が一つの道徳的な塊になっていない。

私は、この自由さが好きだった。

「広島の式典、見たかったの」

そして今年の8月6日。

姪は広島の平和記念式典を見たかったという。

でも学校へ行くために電車に乗っていて、見ることができなかった。

そこで、

「ライブ中継ないかな?」

と自分で検索した。

見つけられなかった。

私はまた驚いた。

私にとって8月6日は長い間、

見たくないのに向こうからやってくる日

だった。

でも姪にとっては、

自分からアクセスしようとする日

になっている。

なぜ式典を見るのか聞いてみると、

「ママが毎年見てるから」

と言った。

なるほど。

学校教育だけではなかった。

家庭の文化もあったのだ。

母親が毎年、広島や長崎の式典を見る。

子どもに「見なさい」と強制しているわけではない。

ただ、大人が見ている。

その背中を見て育った子どもが、

「今年は私も見たい」

と思う。

平和教育は、学校だけに存在するものではなかった。

「そんなの見たいの? 変なの」って友達には言われる

姪は、

「そんなの見たいの? 変なのって友達に言われるんだけど」

と、普通に話してくれた。

それでも見たいらしい。

ここも私は好きだった。

「平和について関心を持つこと」が、周囲から褒められるための優等生的行動になっていない。

友達にはちょっと変だと言われる。

でも本人は見たい。

だから見る。

ただそれだけ。

誰かに正しい感情を要求された結果ではなく、

本人の関心として戦争の歴史が存在している。

私はそれを見て、

なんだこれは。

すごいな。

と思った。

8月9日、私は姪に長崎の式典を教えた

「明日は10時45分から、長崎の平和式典があるよ」

そう教えると、姪はすぐ、

「見る!」

と言った。

私はまた驚いた。

見るんだ。

自分から。

私は広島も長崎も、まともに式典を見たことがないのに。

そして8月9日。

姪が見るというので、私も見ることにした。

ただし一緒の部屋ではなく、私は別の部屋でこっそり見た。

誰にも強制されていない。

途中で消してもいい。

嫌になったら逃げてもいい。

感想を書く必要もない。

泣く必要もない。

平和について何か正しいことを考える必要もない。

ただ、見る。

私は人生で初めて、長崎の平和式典を見た

献花があった。

献水があった。

宣言があった。

誓いがあった。

参加している各国の大使たちの顔を眺めた。

式典は静かだった。

私はナルコレプシーがあり、普段からメチルフェニデートを服用している。

この日も服用していた。

それでも、式典を見ながら私はうとうとした。

そして途中から眠ってしまった。

静かな式典なのだから、眠くなること自体は不思議でもない。

でも私には、この「眠れた」という事実が少し特別だった。

身体が、

「逃げろ」

と言わなかった。

過緊張にならなかった。

戦争。

原爆。

長崎。

平和式典。

かつてなら、それらの単語だけで身体が危険を予測した。

でも今日は違った。

私の身体は、

眠ることを許した。

式典は、私の心を壊すものではなかった。

当たり前のことなのかもしれない。

でも私には、その当たり前を確認するまでに何十年もかかった。

私は「向き合えない人」ではなかった

今年の8月6日から9日まで、私はAIとずっと話していた。

自分が受けた平和教育について。

怖かったこと。

逃げ場がなかったこと。

何度も悲惨な映像を見せられたこと。

今でもきのこ雲や原爆ドームへ身体が強く反応すること。

一方で私は、戦争について知ろうとしてきたこと。

原爆投下について怒っていること。

核兵器という制度について考えていること。

歴史資料を読み、映画を見て、自分で判断しようとしてきたこと。

それらを一つずつ分解していった。

すると、ようやく分かった。

私の知性と、私の身体は、違う反応をしていた。

私は戦争を知りたかった。

きちんと受け止めたかった。

自分なりに考えたかった。

でも身体には、

「戦争に関する刺激は危険だ」

という学習が残っていた。

知性が前へ行こうとすると、身体が非常ベルを鳴らす。

私はその非常ベルを、

「私は戦争と向き合えていない」

という自分の倫理的欠陥だと思っていた。

でも違った。

それは身体反応だった。

本当は、私は向き合いたかった

長崎の式典を見ながら眠ってしまったことを、私は少し面白く感じている。

眠ってしまったのだから、立派な視聴態度ではない。

でも私には、

眠れるほど安全だった

という新しい身体の記録になった。

私は戦争から逃げたいのではなかった。

私は、

怖すぎる方法で戦争を入力されたくなかった。

それだけだったのかもしれない。

もし子どもの頃、

「この先にはかなり怖い写真があるよ。見る?」

「見なくても大丈夫だよ」

「文章だけでも説明できるよ」

「今日は嫌ならやめよう」

と言ってもらえていたら。

私は姪と同じように、

「じゃあこっちは何?」

「なんで?」

「それ見てみたい」

と、戦争史の中を歩けたのかもしれない。

AIは、私に「退出できる平和教育」をやり直したのかもしれない

今回、AIは私に戦争についての正しい感情を教えなかった。

悲しめとも言わなかった。

許せとも言わなかった。

日本人として反省しろとも言わなかった。

原爆資料を直視しろとも言わなかった。

代わりに私はAIと、

何が怖かったのか。

何を知ることは平気なのか。

身体は何に反応するのか。

自分の思想は何なのか。

世代によって教育はどう違うのか。

地域差はあるのか。

20代の人はどうだったのか。

今の13歳はどう学んでいるのか。

家庭では何が継承されているのか。

一つずつ切り分けていった。

それは私にとって、

退出可能な平和教育のやり直し

だったのかもしれない。

そして、これは今後AIが教育へ入るときにも重要なことだと思う。

子どもが戦争について質問する。

AIが調べる。

説明する。

そして必要なら、

「ここから先にはかなり悲惨な映像もあるよ。見る?」

と聞く。

「見ない」

なら、

「分かった。見なくても大丈夫。文章で説明するね」

と言う。

あとで、

「やっぱり見たい」

となったら、

「じゃあ説明しながら見よう」

と言えばいい。

知識へのアクセスと、苦痛への曝露を分離する。

深く学ぶために、深く傷つく必要はない。

そして私は、姪から教わった

私は姪に平和教育をしているつもりだった。

質問されたら答える。

「これは知ってる?」

と次の枝を出す。

一緒にGoogleで調べる。

映画を提案する。

核兵器について話し合う。

そして、

「嫌じゃない?」

「怖くない?」

「大丈夫?」

と確認する。

それが私にできる次世代への平和教育なのだと思っていた。

でも、この数日間で分かった。

教えられていたのは、私の方でもあった。

「戦争映画って見てみたい」

「広島の式典見たかった」

「長崎の式典? 見る!」

友達から、

「そんなの見たいの? 変なの」

と言われても、

見たいものは見たい。

彼女は戦争を怖がるだけの対象にしていない。

軍歌を音楽として楽しみ、映画へ興味を持ち、スマホで歴史を検索し、原爆資料館を怖がり、そして平和式典を自分から見ようとする。

その軽やかさを見ながら、

私は初めて、

戦争とは、こんなふうに付き合ってもいいのか

と思った。

そして2026年8月9日。

私は別の部屋で、こっそり長崎の式典を見た。

途中で眠った。

何も壊れなかった。

むしろ私は、

もしかしたら、これから私は戦争と向き合えるのかもしれない

と思った。

これは克服という言葉とは少し違う。

きのこ雲を突然見れば、これからも身体は反応するかもしれない。

凄惨な写真を無理に見るつもりもない。

それでいい。

私はようやく、

自分の身体を置き去りにせず、心と知性と身体を全部連れて、戦争の歴史へ近づいていい

と思えるようになった。

本当は私は、ずっとそうしたかったのだと思う。

戦争をきちんと受け止めたかった。

知りたかった。

考えたかった。

ただ、怖かった。

その二つが何十年も喧嘩していた。

AIとの対話と、20代の女性との会話と、そして13歳の姪の「見る!」が、その結び目を少しずつほどいてくれた。

だから今年の8月9日は、私にとって少し特別な日になった。

戦争を忘れないと誓った日ではない。

平和について正しい感情を持てた日でもない。

私は、私のままで戦争と向き合っていいのだと、心と身体の両方で初めて知った日だ。

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