日本のフェミニズムは、なぜ女性の身体から出発しながら権利へ到達する直前に道徳へ曲がるのか
リプロダクティブ・ジャスティス、部落フェミニズム、そして私が2014年から手繰ってきた配管
私は2014年ごろから、緊急避妊薬を薬局で入手できるようにするための要求運動に関わってきた。
そのとき私が求めていたことは、思想的には単純だった。
避妊に失敗した。
妊娠を望んでいない。
妊娠の可能性を下げる薬がある。
時間制限がある。
ならば、必要な人が時間内に薬へ到達できるようにしろ。
薬を出せ。
値段を下げろ。
時間内に届かせろ。
余計な道徳審査を挟むな。
本人に決めさせろ。
ところが日本のフェミニズムは、女性の身体を語ることには慣れていても、身体から出た要求を、権利・医療・相談・制度・国家責任へ通すことには、ひどく不慣れだった。
女性はなぜ傷ついたのか。
女性はどう語られてきたのか。
誰が女性を定義するのか。
差別を内面化した自己をどう語り直すのか。
国家や家父長制は女性へ何を押しつけたのか。
こうした問いは盛んに語られる。
しかし、
その女性は明日、どこへ行けばよいのか。
何を本人だけが決められるのか。
他者がその決定を奪った場合、どう裁くのか。
誰が相談を受け、医療を提供し、費用を負担するのか。
と尋ねると、急に誰も答えられなくなる。
私は十年以上、この断線を見続けてきた。
そして最近、『リプロダクティブ・ジャスティス』の日本語版訳者あとがき、『部落フェミニズム』、『部落フェミニズムに呼応する』を続けて読んだことで、その断線が偶然ではなく、日本のウーマンリブとフェミニズムが長く抱えてきた構造なのではないかと思い始めた。
アメリカのリプロダクティブ・ジャスティスは、国家へ請求書を出す
アメリカのリプロダクティブ・ジャスティスが強烈なのは、女性たちの属性をたくさん並べたからではない。
黒人女性、先住民女性、貧困女性、障害女性、移民女性。
彼女たちの経験を、
「異なる女性たちの声を聞きましょう」
という道徳的な連帯論へまとめたからでもない。
リプロダクティブ・ジャスティスが問うのは、もっと具体的である。
誰が強制的に不妊化されたのか。
誰が中絶を禁じられたのか。
誰が逆に、妊娠継続を許されなかったのか。
誰の子どもが国家に奪われたのか。
誰が安全な水、住居、医療、労働条件を与えられなかったのか。
誰が子どもを産む権利だけでなく、安全に育てる権利を奪われたのか。
ここでは、個人の語りは国家と制度へ接続される。
傷ついた女性が自分を語り直して終わりではない。
その傷を生んだ医療制度、福祉制度、刑務所、警察、住宅政策、環境政策へ責任を負わせる。
証言が、国家への請求書になる。
ところが日本語版の訳者あとがきでは、部落、在日朝鮮人、沖縄、障害女性、子育て女性、トランスジェンダー、高齢女性などが並び、
異なる女性たちが互いの経験を聞くこと。
人権を基盤として連帯すること。
男性も傍観者でいてはならないこと。
という、日本の左翼・リベラルが好む政治文法へ包装されていた。
本文で読んだリプロダクティブ・ジャスティスは、国家と制度へ請求書を切っていた。
訳者あとがきでは、私たちがいかに多様な問題を見落とさず、正しく連帯できるかが前景化していた。
問われている主語が違う。
アメリカのリプロダクティブ・ジャスティスでは、
「この女性たちの身体へ、国家と社会は何をしたのか」
が主語である。
日本の左翼・リベラルでは、
「私たちは多様な女性たちへ、どう正しく応答できるか」
が主語になる。
被害を受けた身体と制度の関係が、正しくありたい運動主体の倫理へ置き換わる。
『部落フェミニズム』が突きつけた、主流フェミニズムの無関心
『部落フェミニズム』は、非常に重要な問いから始まる。
部落女性は、昔から存在していた。
部落女性は、昔から運動していた。
それなのに日本の女性史やフェミニズム研究では、なぜほとんど書かれてこなかったのか。
これは「部落女性を新たに発見しました」という本ではない。
「お前たちは、ずっと見なかっただろう」
という告発である。
私は母方が部落で、父方は部落ではない。
私は部落の子として育ち、部落差別、在日朝鮮人差別、戦争、人権について大量の教育を受けた。
しかし、その地域でフェミニズムという言葉を聞いたことはなかった。
私は二十五歳か二十六歳ごろまで、フェミニズムとは何かを知らず、必要だと思ったこともなかった。
その後、緊急避妊薬の市販薬化要求を通じて必要に迫られ、ウーマンリブから女性運動史まで一日に何冊も読むようになった。
私の教育歴そのものが、部落解放運動とフェミニズムが並行して存在しながら、接続されていなかったことを示している。
不可視化は、概念ではない。
私の教育歴に実装されていた。
『部落フェミニズム』には、病院のなかった地域、保育所を求めた女性たち、女工になった女性、遊郭へ売られた女性、結婚差別、貧困、家族形成の困難が記録されている。
そして、極めて強い証言がある。
部落の女性が、子どもを産むことによって、その子どもを再び差別へさらしてしまうのではないかと恐れる。
それでも子どもは欲しい。
私は子どもを産んでよいのだろうか。
これは、どう考えてもリプロダクティブ・ヘルス/ライツ/ジャスティスの問題である。
部落差別が、女性の「産む/産まない/家族をつくる」という選択へ侵入している。
産めば子どもへ差別を継承してしまうという恐怖によって、本人の生殖自由が歪められている。
しかし、この証言は日本のフェミニズム回路へ入ると、
性差別。
部落差別。
優生思想。
命の選別。
差別を内面化した自己の語り直し。
へ吸い込まれていく。
肝心の問いが残される。
その女性は、妊娠したとき、誰に相談できたのか。
「私が産んだら、子どもも部落の子になるのか」
という不安を、歴史、法律、差別の現状、家族関係、生殖の意思に沿って一緒に考えてくれる人はいたのか。
産む方向にも、産まない方向にも誘導せず、本人の決定を支える相談制度はあったのか。
答えは、おそらく、なかった。
そして今もない。
今も、
母方が部落だけれど、自分の子どもも部落になるのだろうか。
相手へ言うべきなのか。
相手の親に知られたらどうなるのか。
子どもが将来、結婚や就職で調べられるのか。
私が産むことで、何かを背負わせるのではないか。
と、ぼんやり考えている女性はいるだろう。
しかし、その不安は、産婦人科だけの問題でも、法律相談だけの問題でも、心理相談だけの問題でもない。
どの窓口からもこぼれる。
部落女性の生殖自由は、差別だけでなく、相談、支援、情報、ケアの不在によっても侵食されてきた。
「私は産んでいいのか」と思った女性に必要だったのは、命の尊さを説くことではない。
一緒に考える人。
正確な情報。
産む選択と産まない選択の両方を支える制度。
産んだあと、親子を差別から守る社会条件。
それが必要だった。
なぜ、リプロの問いが「命の選別に反対」へ吸い込まれるのか
日本のウーマンリブやフェミニズムには、優生思想をめぐる深い傷がある。
女性の自己決定を掲げたとき、障害者運動から、
「あなたたちが選ぶというとき、私たちは産まれない方がよい存在として選別されるのではないか」
と強く問われた。
その批判は無視できない。
国家による強制不妊、強制中絶、障害者の生殖管理は、重大な人権侵害である。
しかし、その歴史的な問いを受け止める過程で、日本のフェミニズムは、リプロダクティブ・ライツの問いが現れるたびに、
優生思想ではないか。
命を選別していないか。
障害者の存在を否定していないか。
どんな命も尊いのではないか。
という警報を鳴らすようになった。
警報装置はある。
だが配管がない。
「私は産んでよいのか」という問いには、本来、複数の層がある。
本人が妊娠を継続するかどうかを決める権利。
差別によって、その選択が歪められない権利。
産むと決めた場合に、子どもを安全に育てられる社会条件。
産まないと決めた場合に、道徳的に処罰されない権利。
相談、医療、情報、所得、住居、教育、ケアへのアクセス。
ところが優生思想警報が鳴ると、これらが、
「差別される命にも価値がある」
という一つの命題へ収束する。
その命題自体は否定されるべきではない。
しかし、それは妊娠する女性が何を選び、選択後にどう支えられるかへの答えではない。
「どんな命も尊い」と言うだけでは、
では産みなさい。
命を肯定できる女性でありなさい。
差別へ抵抗するためにも産みなさい。
という別方向の道徳圧を生みかねない。
リプロダクティブ・ジャスティスが守るのは、抽象的な命の価値だけではない。
産む自由。
産まない自由。
産んだ子どもを安全に育てる自由。
それらを実際に可能にする社会条件である。
優生思想反対は、リプロダクティブ・ジャスティスの一部である。
代用品ではない。
『部落フェミニズムに呼応する』は、何に呼応したのか
『部落フェミニズム』が出た後、『部落フェミニズムに呼応する』という本が刊行された。
しかし、日本人執筆者が部落フェミニズムへ呼応しようとすると、しばしば奇妙なことが起きる。
部落差別。
在日朝鮮人。
沖縄。
障害。
セクシュアル・マイノリティ。
家父長制。
植民地主義。
天皇制。
優生思想。
あらゆる問題が並べられ、
私たちは何一つ見落としていない。
私たちは多様な差別へ応答できる。
異なる女性たちの語りを聞き、自分自身の経験を語り直そう。
という政治的善性が前景化する。
ここで交差性は、制度の配管図ではなく、個人が自分の傷を理解するための多色刷り心理地図になる。
部落女性の語りに触れて、
自分の母娘関係を捉え直した。
自分の差別意識に気づいた。
自分もまた語れなかった女性だった。
他者の語りを聞くことで、自分を育て直した。
というところへ戻ってくる。
それは個人にとって重要な癒しであることもある。
しかし、政治ではない。
少なくとも、それだけでは政治にならない。
交差性が本来問うべきなのは、
どの制度が、どの場面で、誰の権利を侵害しているのか。
どの行政機関へ何を担わせるのか。
何を禁止し、何を保障し、何に予算をつけるのか。
である。
ところが日本の中産階級都市部フェミニズムでは、他者の歴史が、自分の内面を読むための教材になりやすい。
部落女性の経験に出会っても、
部落女性の生殖自由を支える制度を作る
ではなく、
部落女性の語りによって、私も自分の女性経験を捉え直した
へ帰ってくる。
他者へ旅したようで、最終目的地はまた自分の鏡である。
日本人は上空へ行き、在日・韓国人執筆者は生産と再生産を見る
『部落フェミニズムに呼応する』の中で、部落差別を性別化された生産・再生産の制度として捉えていたのは、韓国人や在日朝鮮人の執筆者だった。
彼女たちは、部落問題を単なるアイデンティティや差別意識として見ない。
土地。
労働。
婚姻。
家族。
出産。
子ども。
貧困。
人口移動。
国家。
資本。
これらがどう接続され、女性の身体と生活を編成したのかを見る。
日本人執筆者は、部落女性の証言を受け取ると、
天皇制。
植民地主義。
家父長制。
諸差別の根源。
共通課題。
という巨大理論の上空へ上がりやすい。
問いの向きが違う。
在日・韓国人執筆者は、
女性の身体と生活が、どの制度にどう組み込まれたか
を見る。
日本人執筆者は、
複数の差別を生み出す上位の思想や権力は何か
を見る。
巨大理論には意味がある。
しかし、原因を高く置きすぎると、介入点が消える。
天皇制を批判しても、
部落女性が妊娠時にどこへ相談するかは決まらない。
出自調査をどう止めるかも決まらない。
相手や家族への告知をどう支援するかも決まらない。
産むか迷う女性へ、誰が情報とケアを渡すかも決まらない。
部落女性は、かつて女性史から見えなくされた。
今度は見えるようになった途端、天皇制、反優生、植民地主義、連帯という上位理論の証拠へ使われる。
不可視化とは別の方法で、また女性の身体が薄くなる。
日本のフェミニズムは、国家から逃れる政治には強い
日本のフェミニズムは、国家から何かを剥がす政治には強い。
国家に女性を定義させるな。
国家に妊娠を罰させるな。
国家に生殖を管理させるな。
権力が押しつけた女性像を拒否する。
自分の言葉を取り戻す。
だから堕胎罪についても、
堕胎罪は国家権力による女性の身体への侵害である。
女性を罰する法を廃止せよ。
というところまでは進める。
しかし、
本人が産みたいと思っていた妊娠を、他人が薬物、暴力、欺罔、強要によって終了させた場合、それは何の権利侵害なのか。
誰を、どの構成要件で、どう罰するのか。
単なる傷害罪でよいのか。
妊娠継続の意思を奪ったこと自体を、独立した法益として守るのか。
と尋ねると、設計図がない。
女性を罰する国家権力には反対できる。
だが、女性本人へどの生殖上の権限を帰属させ、その権限を侵害した私人をどう裁き、被害をどう救済するかという政治が弱い。
国家から解放することはできる。
国家へ仕事を担わせることができない。
医療を全国で利用可能にしろ。
相談員を配置しろ。
所得と住居を保障しろ。
産む選択にも産まない選択にも資源を出せ。
強制中絶を本人の生殖意思への侵害として裁け。
差別によって家族形成が妨げられないよう法的に守れ。
こうした保障政治には、法律、予算、行政、専門職、地域格差、実施責任、救済手続きが必要になる。
そこには「解放された私」という美しい物語はない。
泥くさい施工現場があるだけである。
語り直しは政治の入口だが、権利ではない
語り直しや捉え直しが無意味だとは思わない。
自分が悪かったのではない。
家族だけがおかしかったのではない。
私の苦しみには、性差別、貧困、部落差別、障害差別、植民地主義などの構造が関係していた。
それを理解することで、自責が減り、自分の人生を別の言葉で語れるようになることはある。
だが、それはまず個人の癒しである。
学問として書かれていても、作用点が個人の内面であるなら、それは高度に理論化された治癒過程である。
政治は、その先へ行かなければならない。
何が起きたのか。
どの権利が侵害されたのか。
誰が責任主体なのか。
どの制度を変えるのか。
何を禁止し、何を保障するのか。
侵害された人をどう救済するのか。
権利は、本人が自分を語り直せない日にも使えるものでなければならない。
語れなくても薬を受け取れる。
自己肯定できなくても中絶できる。
差別を整理できていなくても相談できる。
立派なナラティブがなくても保護される。
政治的に正しくなくても、産み、産まず、育てられる。
癒えていない人にも作動する外部装置。
それが権利と制度である。
私が2014年から見てきたもの
私は研究者ではない。
研究費もない。
大学の所属もない。
長期研究プロジェクトを組めるわけでもない。
ただ、反応が早すぎる。
女性の証言を読むと、そこにある配管の欠落が先に見えてしまう。
緊急避妊薬が必要だと聞けば、
なぜ薬局で買えないのか。
なぜ高いのか。
なぜ時間制限がある薬へ道徳審査を挟むのか。
と思う。
部落女性が「私は産んでよいのか」と悩んだと聞けば、
なぜ相談先がなかったのか。
なぜ今もないのか。
なぜリプロダクティブ・ジャスティスとして読まれないのか。
と思う。
堕胎罪廃止と聞けば、
女性本人を罰しないことと、他人が勝手に妊娠を終了させた場合を罰することを、どう分けて設計するのか。
と思う。
出生前診断と聞けば、
命の価値の説教ではなく、妊娠する本人へどんな情報と支援があるのか。
と思う。
そのたびに日本のフェミニズムは、
表現。
ナラティブ。
アイデンティティ。
権力批判。
優生思想。
命の尊さ。
連帯。
の円環を回る。
そして私は毎回、
権利は。
医療は。
相談は。
制度は。
救済は。
誰が金を出すのか。
誰が責任を負うのか。
と叫ぶことになる。
私が長く手繰ってきたのは、個別問題の答えだけではない。
女性の身体から出発した要求が、なぜ権利へ到達する直前で、道徳、語り、善性、巨大な権力批判へ曲がってしまうのか。
その変換装置である。
日本のフェミニズムは、女性の叫びを意味へ変換できる。しかし請求書へ変換できない
『リプロダクティブ・ジャスティス』日本語版の訳者あとがきでは、国家と制度へ向けられた問いが、多様な女性たちと正しく連帯する私たちの倫理へ変わった。
『部落フェミニズム』では、部落女性が歴史から消されたことが告発された。しかし「私は産んでよいのか」という生殖自由への侵害は、優生思想と命の尊さへ吸い込まれた。
『部落フェミニズムに呼応する』では、部落女性の経験が、交差性による自己点検、語り直し、天皇制や植民地主義をめぐる上位理論へ変換された。
女性の叫びは聞かれている。
意味も与えられている。
正しい名前もつけられている。
しかし、その女性が明日使えるものがない。
日本のフェミニズムは、女性の叫びを政治的意味へ変換する力は持っている。
しかし、その叫びを権利、制度、予算、医療、相談、救済という請求書へ変換する力が弱い。
国家が女性へ押しつけた物語を解体することには成功した。
しかし、その廃材から、女性が利用できる制度を建てる政治へ十分に移行しなかった。
檻を批判する。
鍵を壊す。
囚人の語りを取り戻す。
そこまではできる。
しかし檻の外へ出た人に、病院、家、所得、薬、相談窓口を用意する段階になると、工事業者がいなくなる。
これが、日本のウーマンリブとフェミニズムから、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ/ジャスティスへ接続する機能が脱落した、一つの配管図なのだと思う。
そして私は、2014年ごろから、その床下の漏水音をずっと聞いている。
道徳の話は分かった。
権利はどうした。

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