婚姻はなぜ「愛し合う二人」でなければならないのか

同性婚で性別要件を外したあと、なぜ人数要件は残ったのか

同性婚を求める運動を見ていると、私はしばしば一つの引っかかりを覚える。

それは、同性婚そのものに反対だからではない。

むしろ逆である。

異性の二人に認められている法的保護を、同性の二人にも認める。

その権利拡張は理解できる。

しかし私は、その先で立ち止まる。

なぜ「二人」なのだろう。

異性でなければならない、という条件は疑われた。

では、

二人でなければならない、という条件はなぜ疑われないのか。

私はそこにツルハシを当てたい。

「男と女」から「人と人」へは拡張された

従来の婚姻を単純化すれば、

男+女=婚姻

だった。

同性婚によって、

人A+人B=婚姻

へ拡張される。

これは大きな変化である。

性別要件が外れる。

男女でなければ成立しない、という婚姻観は崩れる。

しかし、もう一つの要件はほぼそのまま残っている。

二人であること。

ここはあまり自然物として扱わない方がいいと思う。

なぜなら、

「婚姻は異性間である」

が社会制度だったなら、

「婚姻は二人組である」

もまた、社会制度かもしれないからである。

「愛し合う二人」という説明は、婚姻制度の説明になっているのか

同性婚をめぐる言葉として、

「愛し合う二人に平等な結婚の権利を」

という表現がある。

私は、この言葉が権利運動として強いことは分かる。

既存婚姻制度へアクセスするためには、

「私たちも異性愛者と同じように愛し合う二人です」

という説明は非常に分かりやすい。

しかし婚姻制度そのものを考えるとき、私は少し困る。

愛し合っていることは、法制度上どの機能を担っているのだろう。

相続か。

扶養か。

共同財産か。

医療上の代理権か。

親子関係か。

老後のケアか。

税制か。

住居か。

愛情の有無は、これらのどれにも直接は答えない。

夫婦が深く愛し合っていても、相続ルールは必要である。

愛が冷めても、共有財産の清算は必要である。

激しく喧嘩していても、子どもの養育責任は消えない。

つまり、

愛は婚姻の意味にはなっても、婚姻の機能そのものではない。

ここは分けた方がいい。

婚姻に、私たちは何を詰め込んでいるのか

現代の結婚には、かなり多くのものがパッケージングされている。

恋愛。

性愛。

同居。

家計。

共有財産。

相続。

扶養。

家事。

育児。

親族関係。

介護。

病気になったときのケア。

老後。

社会的承認。

これらを一つの制度にまとめて、

一人の相手と、生涯にわたって運用する。

改めて見ると、かなり重い。

しかも現代の結婚は、

「この人と家計を共同化したい」

ではなく、

「この人を愛している」

を入口にすることが多い。

入口は感情である。

しかし入った瞬間、

家計・相続・扶養・親族・育児・介護の巨大パッケージ

がついてくる。

ここに少し無理があるのではないか。

結婚したがらない人が増えたなら、「人」の問題だけではなく「商品設計」を疑っていい

結婚したがらない人が増えている。

それを、

「若者が未熟になった」

「責任を負いたがらない」

「恋愛離れ」

「男女の要求が高くなった」

だけで説明するのは簡単である。

しかし別の見方もできる。

婚姻パッケージが重すぎるのではないか。

恋人は欲しい。

しかし同居したくない。

性愛関係は欲しい。

しかし家計は別がいい。

子どもは育てたい。

しかし恋人と共同養育したいとは限らない。

老後を一緒に暮らしたい友人はいる。

しかし性愛関係はない。

相続させたい人がいる。

しかし婚姻はしたくない。

こうした人に、現代婚は、

全部入りを買うか、買わないか

を迫りがちである。

🪼「単品はないんですか?」

と言いたくなる。

性別要件を外したなら、人数要件も検品していい

ここで同性婚へ戻る。

同性婚は、

「婚姻する二人の性別」

を自由にした。

ならば次に、

「婚姻する人数」

も検品していい。

二人。

三人。

四人。

もちろん、多人数婚には問題がある。

財産分与はどうするのか。

一人だけ離婚したらどうするのか。

子どもの法的親は何人まで認めるのか。

二対一で一人を抑圧したらどうするのか。

相続割合は。

社会保障は。

意思決定は。

猛烈に面倒である。

しかし、

面倒であることと、不自然であることは同じではない。

株式会社だって面倒である。

相続制度も面倒である。

必要なら人間はルールを作る。

だから、

「三人婚は法制度が複雑になる」

は現実的な問題であっても、

「婚姻は本質的に二人である」

という証明にはならない。

一対一婚には、一対一婚なりの弱点がある

三人以上の関係について、

「嫉妬する」

「揉める」

「派閥ができる」

と言う人は多い。

確かにそうだと思う。

しかし二人婚にも、二人婚特有の弱点がある。

密室化である。

成人が二人しかいない。

一人が暴力的になれば、もう一人と一対一になる。

一人が家事をしなければ、残り一人に集中する。

一人が病気になれば、残り一人に負担が乗る。

夫婦関係が壊れれば、そのまま家庭全体が壊れやすい。

親族や社会サービスが弱ければ、なおさらである。

三人なら、新しい問題が出る代わりに、

冗長性

も出る。

一人が病気でも二人残る。

一人が子どもを見て、一人が働き、一人が休める。

一つの関係が悪化しても、家庭全体が即座に断線しない可能性がある。

だから比較すべきなのは、

「三人婚はややこしい」対「二人婚は自然」

ではない。

二人婚のリスクと、多人数婚のリスクを同じ土俵で比較すること

だと思う。

一妻二夫を考えてみる

私は最近、『一妻多夫の淫らな世界で』というティーンズラブ小説を読んで、一妻多夫社会を考えていた。

そこでは女性が少なく、一人の妻に複数の夫がいる。

設定を真面目に回すと、逆ハーレムというより、

一人の妊娠・出産する身体を、複数成人で支える家政システム

としてかなり合理的に見えてきた。

そこで現代の核家族へ戻る。

妻が妊娠する。

夫は一人。

子どもが生まれる。

共働き。

家事。

育児。

夜泣き。

病気。

場合によっては上の子もいる。

成人二人。

それで、

「夫がもっと家事をしろ」

「妻がもっと理解しろ」

と男女が憎しみ合っている。

私は思う。

🪼

「夫、もう一人入れてみてはどうですか」

もちろん冗談半分である。

しかし思考実験としては真面目である。

そもそも、

成人二人という人員配置が負荷に合っていない

可能性はないのか。

ここを検討せずに、男女の人格改善だけで解決しようとしていないか。

「愛し合う二人」が本当に家族運営の最小単位なのか

恋愛相手を一人にしたい人は多いだろう。

それはそれでいい。

しかし、

恋愛的一対一

と、

家政的一対一

と、

育児的一対一

と、

扶養的一対一

は同じである必要があるのだろうか。

ここは分けていい。

たとえば、

性愛関係は二人。

しかし共同養育者は三人。

家計共同体は三人。

老後の相互扶助は四人。

そんな制度があってもいい。

つまり、

一対一の恋愛を守りながら、家族運営を多人数化する

こともできる。

ここまで来ると、「多夫多妻」という言葉すら必要なくなる。

問題は性愛の人数ではなく、

誰と何を共同化するか

だからである。

臨時第三者家族という発想

たとえば、子どもがいない夫婦は二人で十分に生活できている。

しかし子どもが生まれる。

0歳。

2歳。

共働き。

突然、人手が足りない。

ならば、

その時期だけ第三成人を法的家族として迎える

という仕組みがあってもいい。

永遠に三人でいる必要はない。

子どもが乳幼児の間だけ。

5年間でもいい。

10年間でもいい。

その第三成人には、

限定的な養育権。

学校や医療への代理権。

居住権。

所得保障。

ケア労働への報酬。

退出ルール。

契約終了時の清算。

そういったものを与える。

これは婚姻でも雇用でもない。

家族と他人の中間

である。

現在の家族制度は、

「家族です」

「他人です」

の二値に寄りすぎている。

もっと中間があっていい。

家族は、永遠の固定メンバーでなければならないのか

ここも疑っていい。

現代婚では、

一度家族になったら原則として生涯

という物語が強い。

しかし人間の必要なケア量は、人生の時期によって変わる。

乳幼児期は猛烈に人手がいる。

子どもが成長すれば減る。

介護が始まればまた増える。

ならば家族構成も、

人生の局面に応じて増減していい

のではないか。

会社なら当たり前である。

繁忙期だから増員する。

プロジェクトが終わったから契約を終了する。

しかし家庭だけ、

「愛し合う二人で永遠に頑張ってください」

となる。

🪼「なぜ?」

私はここをかなり真面目に疑っている。

同性婚でも「愛し合う二人」という近代婚OSは残っている

だから私は、同性婚をめぐる議論に少し物足りなさを感じることがある。

同性婚は重要な権利拡張である。

しかし、

婚姻の基本構造そのものをどこまで変えたのか

と問えば、意外と保守的でもある。

異性愛か同性愛か。

そこは自由になった。

しかし、

二人である。

性愛関係である。

相互に特別な存在である。

一つの家族単位を形成する。

という近代ロマンチック婚の骨格は残っている。

だから、

同性婚の実現と、婚姻制度そのものの再設計は別の課題

として持っておいた方がいい。

前者を支持しながら、後者を問うことはできる。

むしろ、できなければおかしい。

婚姻をなくすより、分解した方がいい

家父長制批判の文脈では、

「婚姻制度そのものをなくせ」

という発想が出ることがある。

私は、それはかなり難しいと思う。

婚姻には現在、

相続。

扶養。

財産。

子ども。

医療。

死後事務。

社会保障。

いろいろな機能が詰め込まれている。

全部なくしたら、その機能をどこかへ移さなければならない。

だから廃止より、

分解

の方が面白い。

生活共同契約。

共同養育契約。

財産共同契約。

相互扶養契約。

医療代理契約。

死後事務契約。

性愛関係。

これらを別々にして、必要なら束ねる。

一人と全部結ぶ必要はない。

Aとは生活。

Bとは共同養育。

Cとは相続。

Dとは性愛。

もちろん現実の制度としては、相当複雑になる。

しかし、

人間の生活が本来複雑なのに、二人婚という一つの箱へ全部押し込んで簡単に見せているだけ

とも言える。

「誰と愛し合うか」ではなく、「誰と何を共同化したいか」

ここまで掘ると、婚姻を考える言葉が変わってくる。

これまでは、

誰を愛しているのか。

だった。

しかし法制度としては、

誰と何を共同化したいのか。

の方が正確ではないか。

この人と暮らしたい。

この人と子どもを育てたい。

この人に財産を残したい。

この人に医療代理を頼みたい。

この三人で老後を支え合いたい。

その全部が同じ人である必要はない。

愛情がある必要さえ、すべての関係にはない。

共同養育者を深く信頼していても、恋愛していないことはある。

老後を一緒に暮らす親友と性交する必要もない。

しかし現在の婚姻制度は、

恋愛と性愛を入口にして、多くの法的機能を一気に付与する。

私はその設計自体を検品したい。

「結婚とは何ですか?」と聞くと、意外と難しい

ここで私は、ものすごく素朴な質問へ戻る。

結婚とは何なのだろう。

愛の証。

それは個人の物語としては素敵である。

しかし法制度の説明としては弱い。

生殖制度。

では子どもを作らない夫婦は?

扶養制度。

では友人同士ではなぜ駄目なのか。

性愛制度。

ではセックスレス夫婦は?

共同生活制度。

別居婚は?

一つずつ例外が出る。

だから婚姻は、実際には、

複数の機能を歴史的に束ねてきた制度

としか言いようがない部分がある。

だったら、その束ね方は変えられる。

男女要件が変えられたのなら、

人数要件も。

性愛要件も。

恒久性も。

親子との接続も。

検討対象にできる。

「二人」という数字を、自然界から一度降ろす

私は、

「三人婚こそ正しい」

と言いたいわけではない。

一対一が好きな人は、一対一でいい。

それで幸せな人は何も変える必要がない。

ただ、

二人だけを自然で正常な家族単位として固定する必要があるのか

は問い直していい。

三人が失敗することもある。

二人も失敗する。

四人も揉める。

二人も揉める。

大事なのは、

人数に道徳的優劣をつけることではなく、制度として何が起こるかを比較すること

だと思う。

ここで初めて、

一夫一婦。

一妻多夫。

一夫多妻。

多人数生活共同体。

共同養育契約。

臨時第三者家族。

そういったものを、一つの比較表へ載せられる。

どれが最もロマンチックかではない。

どの条件で、何をうまく処理できるのか。

それを見る。

家父長制批判の次に掘るべきなのは、「なぜ二人なのか」かもしれない

家父長制批判は、

「男が家長である必要はない」

と言った。

その通りだと思う。

同性婚は、

「男女である必要はない」

と言った。

これもその通りだと思う。

では次は、

「二人である必要はあるのか」

を問っていい。

そしてさらに、

「性愛関係である必要はあるのか」

「生涯固定である必要はあるのか」

「家計・相続・育児・介護を一人へ束ねる必要はあるのか」

まで行く。

私はそこまで掘って初めて、

婚姻制度そのものを再設計した

と言える気がする。

性別だけを変更し、残りのOSをそのまま使うことも一つの改革である。

しかしそれが最終形である保証はない。

愛はあっていい。でも、愛を制度の耐力計算に入れない

最後に、愛について。

私は愛を否定したいわけではない。

好きな人と暮らすのは楽しい。

愛する人と子を育てたい人もいる。

一人の人を特別に思いたい人もいる。

それでいい。

しかし、

愛しているから支え合える。

愛しているから介護できる。

愛しているから育児できる。

愛しているから一生一緒にいられる。

を制度の前提にするのは怖い。

愛情は変わる。

人は疲れる。

病気になる。

関係も壊れる。

だから制度は、

愛が薄くなっても動く方がいい。

愛があることをボーナスにする。

インフラにはしない。

そうすれば、愛は愛のままでいられる。

性別要件の次は、人数要件へ

同性婚が婚姻制度に投げかけた大きな問いは、

「なぜ異性でなければならないのか」

だった。

私はその次に、

「なぜ二人でなければならないのか」

を置きたい。

答えが、

「やはり二人が最も安定する」

でも構わない。

ただし、それは検討した結果であってほしい。

「昔からそうだから」

「愛とは二人でするものだから」

「三人はややこしいから」

ではなく、

二人婚の利点と欠点。

多人数婚の利点と欠点。

ケア負担。

密室性。

退出可能性。

財産。

育児。

相続。

社会保障。

これらを比べる。

そして必要なら、

婚姻そのものを増やすのではなく、家族資格を複数化する

という解もある。

私はそのくらいまで常識を疑っていいと思っている。

🪼⛏️

「愛し合う二人」という言葉は美しい。

でも私は、その横で小さく聞いている。

その『二人』、どこから来た数字ですか?

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