私は子どもの頃、平和教育が大嫌いだった。
戦争が好きだったわけではない。
原爆を肯定していたわけでもない。
歴史を知りたくなかったわけでもない。
ただ、怖かった。
そして何より、逃げ場がなかった。
学校で戦争について学ぶ。
8月6日には全校登校日がある。
戦争映画を見る。
原爆について学ぶ。
地域の児童館や施設でも平和教育がある。
夏になるとテレビでも戦争番組が始まる。
広島、長崎、沖縄。
また戦争。
また原爆。
また死者。
また悲惨さ。
今の私から見ると、私が育った時代と地域では、反差別教育と反戦・平和教育がかなり高密度に存在していたのだと思う。
しかも私は、この種の情緒教育との相性が劇的に悪かった。
だから長い時間が経ったあとにも、
「もう見たくない」
という身体反射が残った。
ところが最近、20代後半の女性と、13歳の姪に平和教育について聞いてみた。
そこで私は、
あれ?
と思った。
私が知っている平和教育と、ずいぶん違う。
さらに姪と戦争について話しているうちに、
あれ? あれ?
となった。
そして最後には、
すげーーーー。
と思った。
私がずっと考えていた「次の平和教育」は、すでに別の形で始まっていたのかもしれない。
20代後半の女性には「8月6日の登校日」がなかった
20代後半のネイリストさんに、子どもの頃どんな平和教育を受けたのか聞いてみた。
中学校の修学旅行では広島へ行った。
原爆資料館にも入った。
ただし、気分が悪くなったら退出してよかった。
高校の修学旅行は沖縄だった。
そこでも戦跡を見るコースを選ぶことはできたが、選ばなくてもよかった。
そして、
8月6日の全校登校日はなかった。
学校で毎年戦争映画を見ることもなかったという。
私はびっくりした。
私の中では、8月6日に学校へ行くことも、夏に戦争について繰り返し学ぶことも、かなり当たり前の学校生活の一部だったからだ。
でも、どうやら当たり前ではない。
地域差もあるだろう。
学校差もある。
そして明らかに、世代差もある。
さらに面白いのは、
「資料館へ行く。でも無理なら退出していい」
という設計だったことだ。
歴史について学ぶことと、刺激へ耐えることが分離されている。
私はここに、自分が受けた平和教育との大きな違いを感じた。
13歳の姪も、広島へ行った
さらに私は、13歳の姪にも聞いてみた。
奈良県の公立小学校を卒業して、現在は私立中学校へ通っている。
小学校6年生の修学旅行は広島だった。
その前に、インターネットを使った事前学習をした。
そして広島では平和記念公園へ行き、原爆ドームを見て、資料館にも入った。
資料館は怖かったらしい。
友達と手をつないで見た。
最初の方をじっくり見すぎてしまい、最後は時間がなくなって駆け足になったという。
ホテルからは原爆ドームが見えた。
夜になると、
「なんか怖いな」
とは思った。
でも怖くて眠れないほどではなかった。
そして友達は、
原爆ドームより、自分のベッドが北枕になっていないかを気にしていたらしい。
私は笑った。
でも、この話は案外重要だと思う。
原爆について学んだ。
怖かった。
でも、その恐怖がその夜の世界すべてを占領したわけではない。
友達と話す。
ホテルで過ごす。
北枕を気にする。
翌日はまた別のことをする。
歴史の恐怖が、13歳の日常生活の中へ適切な大きさで収まっている。
そして中学生になったら、特に平和教育はしていない
姪には、私が経験したような8月6日の全校登校日もない。
現在通っている私立中学校でも、今のところ特別な平和学習はしていないという。
では、戦争に無関心になったのか。
これが、全然違った。
むしろ姪は昔のことが好きだ。
日本の戦争については学校で習った。
だから今度は、
「海外では戦争中どうだったの?」
と興味を持つ。
ホロコーストについても、
「ユダヤ人に何かあったのは知ってるけど、詳しくは知らない」
という。
怖い歴史について知ることも平気だという。
もちろん、
「うわ」
とは思う。
でも、
昔起きた出来事として、知識として理解できる。
ここで私は、かなり驚いた。
悲惨さを刻みつけなくても、歴史への関心は消えていなかった
私たちの時代の平和教育には、少なくとも私が受け取った範囲では、
「忘れてはいけない」
という強い思想があった。
だから繰り返す。
毎年教える。
映像を見る。
証言を聞く。
悲惨さを伝える。
子どもの記憶へ刻み込む。
その背景にはおそらく、
強く記憶しなければ、戦争は忘れられてしまう
という恐れがあったのだと思う。
ところが今の子どもを見ていて、私は別の可能性に気づいた。
情報環境そのものが変わった。
今は、
覚えていなくても、戻れる。
広島について知りたければ調べられる。
原爆について詳しく知りたければ検索できる。
当時の映像も見られる。
資料館の情報も読める。
論文にも公文書にもアクセスできる。
マンハッタン計画について知りたくなったら、その瞬間に調べられる。
つまり、
人間の神経そのものを、歴史資料の保存媒体にする必要性が以前より下がっている。
「忘れない」から「アクセスできる」へ
これは、かなり大きな変化ではないだろうか。
情報へのアクセスが難しかった時代には、
学校で教えておかなければならない。
テレビで放送しておかなければならない。
毎年思い出させなければならない。
一度忘れた情報へ、本人が自力で戻ることが難しかったからだ。
だから社会が、
「あなたの中へ保存しておいてください」
と要求する。
でも現在は違う。
歴史の記録を社会の側に大量に保存できる。
そして個人は、
「知りたい」
と思った瞬間にそこへアクセスできる。
必要なのは、すべてを記憶していることではない。
何かを知らないと気づけること。
調べる方法を知っていること。
情報源を比較できること。
そして、自分で考えること。
記憶の教育から、
アクセス能力の教育へ。
平和教育にも、そんな変化が起きているのかもしれない。
姪と核兵器について話すと、スマホが途中から参加してくる
姪と、
「日本は核兵器を持った方がいいと思う?」
という話をしたことがある。
すると当然、一発で答えは出ない。
「核持ってる国ってどこだっけ?」
スマホで調べる。
「あ、日本って核兵器持ってる国に囲まれてるんだね」
地図を見る。
そこから、
「でも核兵器は使うべきじゃないよね」
という話になる。
「じゃあ日本も持ったら?」
「うーん。でも日本が持っても意味なくない?」
自分なりに考える。
また疑問が出る。
「原爆ってどうやって作ったんだっけ」
マンハッタン計画を調べる。
トリニティ実験へ行く。
「なんで広島と長崎が選ばれたんだっけ?」
また調べる。
学習が一本道ではない。
問いから次の問いへ枝分かれしていく。
「核兵器はいけません」
という結論を教師から受け取るのではなく、
核兵器について知りながら、自分の判断を組み立てていく。
私はこの学び方を見て、
時代が変わったと思った。
軍歌のラッパを好きになってもいい
さらに姪は最近、軍歌を聴いている。
「これ好き!」
と私にも聞かせてくれる。
なぜ好きなのか聞くと、
「ここのラッパ!」
「このリズムがいい!」
という。
軍国主義に目覚めたわけではない。
戦争を美化しているわけでもない。
単純に、
昔の音楽として面白い。
音の構成が面白い。
ラッパがいい。
リズムが好き。
これも私は面白かった。
私たちが受けた情緒的な平和教育では、戦争に関係するものが大きな道徳的パッケージとして提示されやすかった。
でも姪の中では分解されている。
軍歌は音楽として聴ける。
戦争は歴史として調べられる。
原爆は科学史としても考えられる。
核兵器は安全保障政策として議論できる。
被爆者については人間の歴史として知ることができる。
全部が、
「戦争は悲惨です」
という一つの感情へ回収されない。
だからこそ、入口がたくさんある。
そして8月6日、姪は言った
今年の8月6日。
姪がこんなことを言った。
「広島の平和式典、見たかったの。でも電車の中にいるから見られなかった」
私は、この言葉にかなり驚いた。
見なければならない。
ではない。
見せられた。
でもない。
学校で見ることになっている。
でもない。
見たかった。
私は子どもの頃、戦争について、
「もう見たくない」
と思っていた。
姪は、
「見たかった」
と言った。
なんという違いだろう。
強制しなくても、自分から戻ってくる
ここで私は、これまで平和教育について考えてきたことを少し修正する必要があると思った。
私は、
これからは悲惨さを繰り返し投入する教育から、戦争や核兵器について自分で判断できる教育へ移行した方がいい、
と考えていた。
でも、
もう一部では移行しているのかもしれない。
少なくとも姪の学び方を見る限り、
戦争についての知識は学校だけから来ない。
インターネットがある。
動画がある。
検索がある。
会話がある。
興味を持ったら、自分から戻れる。
だから教育側が、
「忘れないで!」
と子どもの神経へ何度も刻み込まなくても、
本人が、
「あれ、どうだったっけ?」
と戻ってくることができる。
これは情報化以前には難しかった学び方だと思う。
私の身体には、旧い教育の跡が残った
ここで私は、自分の経験を否定する必要もない。
私は本当に平和教育がつらかった。
今でも、戦争や原爆の強烈な映像を不意打ちで見せられることには強い拒否反応がある。
これは私にとって現実の身体反応だ。
でも私は最近、それを、
「平和教育というものは本質的に人を傷つける」
とは考えなくなった。
もっと局所的だったのだと思う。
私の身体特性。
私が育った時代。
私が育った地域。
反差別教育と平和教育が強く重なった教育環境。
退出しにくい教育設計。
繰り返される情緒的な教材。
それらの組み合わせが、
私という一人の子どもに劇的に合わなかった。
姪に昔の話をすると、
「それ逃げ場ないじゃん」
と笑われた。
そう。
逃げ場なかったんだよ!
今さら13歳に言われて気づく。
私の反応だけがおかしかったわけでもなければ、平和教育そのものが全部間違っていたわけでもない。
組み合わせが最悪だった。
それだけでも、ずいぶん見え方が変わる。
そして私は、新しい地平を見ている
私は今、平和教育に怒っているというより、
むしろ少し感動している。
20代後半の人には、資料館から退出する選択肢があった。
沖縄の戦跡学習も選べた。
13歳の姪には、8月6日の強制登校がない。
それでも広島について学んでいる。
戦争について知っている。
知らない歴史には興味を持つ。
軍歌のラッパを楽しむ。
核兵器について自分で考える。
分からなくなったらスマホで調べる。
そして8月6日には、
「平和式典、見たかった」
と言う。
私はかつて、
「見たくない」
と言っていた。
その何十年か後にいる子どもは、
誰からも強制されていないのに、
「見たかった」
と言っている。
戦争を忘れていない。
でも、戦争に支配されてもいない。
怖い歴史として距離を取ることもできる。
面白い歴史として近づくこともできる。
政治として考えることもできる。
音楽として楽しむことさえできる。
必要になれば記録へ戻れる。
私は、この距離感を子どもの頃に知らなかった。
だから今、
ただただ、
すげーーーー。
と思っている。
戦争の記憶を人間の身体へ刻みつけなくてもいい時代が来たのかもしれない。
記録を残す。
アクセスできるようにする。
調べ方を教える。
問いを持てるようにする。
そして、本人が知りたくなったときに戻ってくる。
「忘れないで」と背負わせる記憶から、「知りたい」と自分からアクセスする歴史へ。
もしこれが新しい世代の戦争との付き合い方なのだとしたら、
私はその変化を、
平和教育の衰退とは呼びたくない。
これはもしかすると、
戦争を「傷」として相続する時代から、「歴史」として自由に学べる時代への移行なのかもしれない。
その新しい地平を、私は今、13歳の子どもの背中越しに見ている。
そしてそこには、
私が子どもの頃にはなかった出口と入口が、
ちゃんと両方ある。

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